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[ その⑥]「ぼくが出せなかった7通の手紙」~胃がんに罹ったペシェへの手紙~ 5 自分をはなれて世の中のことも少しみてみよう

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5 自分をはなれて世の中のことも少しみてみよう

蘭はペシェにとってたまらない魅力を持つ植物のようだった。
それはなぜだろう?
ペシェは、こんなことを言った。
まず、まずなかなか枯れない。
手間がかからない。
病虫害も少ない(問題なのは、なめくじくらいだ)。
そして、花が枯れた後、茎を切ると、そこから芽をだし再び花が咲く。
ペシェが入院のために水もやらずに2週間ほかっておいた蘭の花は、帰宅したときも入院前と同様に咲き誇っていた。
蘭の花はきれいで香りがいいというのには抵抗がある人もいるかもしれない。確かに、大きく色彩も華麗かつ鮮やかで香りも素晴らしいというのは、うらがえせば、けばけばしくて華美で香りがきついということにもなる。
でも、蘭の種類は実はとても多く、10万種はあるといわれていて、そのすべてが華麗であるわけではないのだという。
中には、造形が奇妙で滑稽なもの、小さいけれど作りが繊細可憐というもの。香りではバタークッキー、ニッキ、バニラ、レモン、ムスク、バラ、水仙、チョコレートに似たもの、はたまたハエがたかりたくなるニオイというものまであるらしい。
誰もがいいと認めるのは、花がたいへん長持ちすることだろう。美しい花が50日も机の上で咲いてくれたりすればそれだけで嬉しい。だが、この花の咲いている期間にしても、いろいろで、年に3度それぞれ1ヶ月も咲く品種もあれば、半年間咲き続けているものもあり、もちろん、世話の甲斐なく、花をつけることのない場合もある。 
意外に知られていないのは、100円から手に入るような安い蘭も多いということだ。目を養えば2000円で売っているものを、 苗や見切り品を300円で手に入れ、見事に咲かせることができる。   
つまり、育てるのに手間がかからないというが、一方どこまでも手をかけたり、戦略を練ったりすることが出来るという単純にも複雑にもできるおもしろみがあるらしい。
普段、パソコンにむかう時間が長くて、人と接する時間の多くないペシェにとって、このような蘭の多様性は、まさに人間の多様性を思い起こさせるものであったかもしれない。
10万種の品種は、いろいろな形態の花や草姿、生え方をみせる。受粉によって、
元親と似てはいるが相異なる新種の品種ができ、それに名前がつけられ、それからまたあらたにその子孫ができていくさまは、まるで多様な人々が入り乱れながら歴史が綿々と続いていく、人間という種のミニチュアのようともいえるかもしれない。  

ぼくは、ペシェや片桐のように、新しい抗がん剤を開発しようなどという大きな実現困難な目標をかかげて生きていく姿がうらやましかった。
ぼくだって、まだ高校生や大学生のころ、そんな夢にむかって生きてみたいと思ったことがないわけではない。
しかし、何も技術を身につけぬまま医師国家試験の勉強をおこない、そして医者になってからの仕事はそういう大きな夢とは無縁のものだった。
どこかで、ぼくに、ペシェのようにコンピューター言語を学ぶチャンスや、片桐のように生活を賭けて新しいものにとりくむようなチャンスはあったのだろうか?

彼らに対抗しようとでも思ったのだろうか?
またぼくは、ペシェにあてて、届かぬ手紙を書き始めていた。

      *

日本の医療制度のことについて考えたからといって、今のあなたの状態がどう変わるわけでもない。
未来のために、といっても、自分が考えたからといって、未来が変わるわけではない。
 自分に余裕のある幸せな人だけが、こういうテーマについて考えられる。
 そこで提案!
はったりをかまして、自分に余裕があるふりをしてみるのも、たまにはいいじゃあないですか?

         *

 しかし、今回の手紙は、うまくまとめることができないもどかしさも覚えた。
(おいおい、小松先生。もっとうまく、話をしてくれないかな)
(しょうがないだろう。ぼくは、政治がもっとも苦手なんだから)
(そうか。じゃあ、ぼくと一緒だな)
 ぼくの頭には、こんなペシェとの会話が、自然にうかんできた。

 まあいいだろう。
 心に余裕があるときは、いっとき、自分が社会全体を制御し、指令を行える立場にいると空想して物事を考える時間もある。
 つまり、世の中に対して、いっても何が変わるわけではないけども、何か言ってみたくなることがあるのさ。

ぼくが望むのは、ペシェの病気が今のようにおちついていて、今の状態がいつまでも続くことだけだ。
こんなことを書いた手紙を読んだとしても、ペシェの今の仕事に、何の役にもたたないだろう。
そう考えた結果、この5通目の手紙も、書いたものの、結局ペシェの元に届けられることはなかった。

         *     *      *    

前略 ペシェこと太田誠二様
 
少し前、ぼくは、アメリカ・ヒューストンにある、MDACC (MD Anderson Cancer Center)の腫瘍内科学講座を3週間にわたって見学する機会がありました。
 アメリカの医療の現状について語ることは、それだけで、大きなレポートを必要とする問題です。ここでは、率直な、ぼくの印象を聞いてください。

 MDACCでは入院が非常に少なく、外来での治療が非常に多い。
よくいわれるように、MDACC周囲には、数多くの、患者も滞在するホテルがあり、MDACCへのシャトルバスが走っている。
例えば、胃癌手術を例にとると、MDACCでは当日入院、術後8日目退院。日本のセンター病
院ではこのくらいの入院期間だが、日本のがん治療の中心をになう地方の大きな病院では術前3日入院、術後21日退院くらいのところが今も決して少なくない。
これには、アメリカの高額な入院治療費が背景にあるという説は、しばしば耳にすることだ。
この高額医療費の背景には、高額な医療機器によるものもあろうが、日米の決定的な違いの原因は、人件費によるものということが容易に予想された。
 たとえば、日本の外科医は、外科医、麻酔医、ICU管理、腫瘍内科医、緩和医療というアメリカでは医師5人分の仕事をすべて兼務する。
(にもかかわらず、外科医の給料は、日米でほぼ同じくらいのようである)
 たとえば、アメリカのある腫瘍内科の教授の外来を例にとろう。
ぼくの日本での外来は、わずかに看護師0.5人がつくだけで(2人の医者に1人の看護師がつくので0.5人)1時間に6人の患者をみている。
彼の外来は、医者1人に、Physician Assistant(これは、日本に存在しない、アメリカ独自の医療関係の職業だ。副医師、といったような位置の資格だ)が1名、クラークが1人つき、さらに、患者によっては、Research Nurseがつき、1時間に3から4人の患者をみている。
(日本の医師の3分間外来という批判は、個人にきせられるべきでなく、システムにきせるべきだということは明らかである。)
Physician AssistantやResearch Nurseがあらかじめコンピューター上や患者との面談で情報を収集し医者に報告。医者はその報告を参考に診察。クラークやPhysician AssistantやResearch Nurseが投薬や検査予約や再診予約や患者への説明をおこなう。
(Physician AssistantやResearch Nurseにも一部オーダーする権利がある)
点滴、投薬はもちろん別の場所で別の看護婦が施行する。
日本のぼくの外来では、以上の仕事をほとんどすべて、医師であるぼくが一人でやっている。
本当に想像できないくらいのひらきがある。
 病棟では、医師回診は、1名の医師に、2名のPhysician Assistantと1名の薬剤師がつく。
ここでも、彼らが、あらかじめコンピューター上や患者との面談で情報を収集し医者に報告。医者はその報告を参考に診察後は、彼らが投薬や検査予約や再診予約や患者への説明などをおこなう。
実際の点滴、投薬は看護師が施行するが、依頼によって理学療法士や、心理療法士、呼吸療法士がかけつける。
(ぼくの外科回診は、基本的に看護婦が一人だけつき、外科的処置や血管確保等を医者である自分がおこなうが、MDACCではこれら多くの処置は看護婦の手でおこなわれる)
 分業化・専門化がすすんでいるということ。
これは一方でいろいろな問題をなげかける。
日本の患者意識では、かかりつけの医師にすべてみてもらいたいという意識が強く、
(例えば手術後は執刀医にすべてみてもらいたいという願望がつよく、退院後、風邪をひいたり、指を切ったり、血圧が高いと検診でいわれても、すべて執刀医にみてもらいたがる)
このアメリカの分業化についていけるかどうか疑問はかんじる。
(彼らは「たらいまわし」といってアメリカの分業化を批判するだろうか?)
しかし、一方で、日本の患者は、専門的なよりよい医療をうけることや、時間的余裕をもったスタッフにより応対されるという機会を捨てているともいえる。
いずれにせよ、この高度な分業化・専門化による人件費の高騰がアメリカの医療費をあげていることはまちがいなく、日米の医療システムの違いを理解するための重要なポイントと思われた。
日本とアメリカの医療システムの違いはあまりにも違いすぎて、すぐに日本に導入はできないし、アメリカのシステムがいいのかも不明である。
 医療費高騰を入院期間短縮と外来治療中心でおぎなっているアメリカの姿は日本からみると一見気の毒のようにみえる。
しかし、一方で、専門スタッフを養成し、多くの人数でゆったりと患者と接する時間をもっている様子は、医療費高騰という対価に十分値するような気もする。
 人件費削減、診療報酬のひきさげによって、医療費の問題を解決しようという考えは、貧しい医療しかうまず、医療に従事しようとするものに対して夢のない改革であるという印象をもった。
しかし、理由はそれだけではない。
まず、日本には中小規模の病院(我々が大きな病院と思っている病院が、アメリカでは中小規模の病院に他ならない)が、多すぎる(多すぎるというのもアメリカの基準で、日本では多すぎるどころか、現状でさえも近くに病院がなくて不便と嘆く声が聞かれる)。
そして、外来での治療が多いことを支える、ホームドクターや在宅医療の充実がアメリカではみられる。
 
           *

 まわりくどくいわずに、キャッチコピーのようにまとめてみましょう。

「日本の医療従事者はアメリカの7分の1の数のスタッフで、同じ治療効果のある医療を提供している。そのため、サービス(心のケア)まで手がまわらないのは、やむをえない」

「病床100床あたりの看護師の数が、日本はアメリカの5分の1」

「日本の患者はアメリカの7分の1の医療費で、同じ治療効果のある医療をうけている。その上、サービス(心のケア)はおちる、ミスが多い、と批判することがたえない」

日本は客観的に恵まれているでしょう?
先進国の中で日本の医療費はもっとも安いといわれています。
医療保険加入者は100%近い。
平均寿命は世界一。
これ以上何を求めるというのでしょう。

求めるなら、まず、お金を余計に払うべきではないでしょうか?
なるべく安いお金で最大限の治療をうけ、それではまだ足りず、さらに充実したサービス(端的には、医療スタッフが、患者にかかわる時間の長さ)をさらに求める。
これは、いくらなんでも、欲張りすぎ、虫がよすぎるんじゃありませんか?
実際、マンパワーという観点でみれば、ずいぶん昔から既に病院はパンクしているのです。
今まで何十年もずっとパンクした状態でやってきているから、これが当たり前と思われているだけで、当たり前の姿ではないのです。
アメリカの医療は、そのことを、鏡のように、目の前に映しだしてくれます。
医療従事者をせめる前に、制度をまずせめるべきです。
医療従事者は「分身の術」を使ったり「1日を100時間にする時間操作能力」をもっていたりするわけではないのです。

 (でも、中には、お金ならいくらでも払う、という人もごく一部にいるんだろうな。そういうお金持ちのみ対象の病院は・・・きっと、すでに日本にもあるのだろうな。)

 ぼく個人としては、すべてを考慮したあるべき姿をだすプランをだす自信はないのですが、とりあえず、ふたつのことを提案したいと思います。

一つ目は、まず救急車の有料化。
救急車を利用する8割くらいは救急でない。
しかし、肉体的にはそうでなくても精神的にはそうだ、と声高に主張する人も多いでしょ
う。それなら、なおのこと、そういう人はお金を払っても救急車を使うはず。
声の大きい人が勝つ、というのは、どうかと思います。実際にはしばしばあることですが・・・。
「今の日本では9割以上の人が病院で死ぬ。一方、昔の日本や、現在の欧米では5割くらいしか病院で死なない」
という事実と、日本のこの救急車の利用が多すぎる現状とは、おそらく関連しています。

二つ目は、看護師数を増やすだけではなく、看護師の実施できる医療行為の範囲を広げること。
これは、医療問題に詳しい方もあまり触れられないが、日本の医療問題の根っこにあって、しかも法律を改正するといった政治的方法で解決も不可能ではないことではないか?とぼくは優先順位が高いと思っています。

看護師の増員。
勤務医の増員、あるいは給料の増額。
それでは、問題は解決しないし、医療従事者のストレスは消えないと考えます。
なにも「できない」(ここでいう「できない」は個人の能力のことではなく、権限として「できない」ということです)看護師がいくら増えても仕事の効率はあがりません。
医者のストレスは、給料が少ないことではなく、あまりにも仕事が煩雑に多く、患者やスタッフとむきあう時間がとれないことです。

医師の行う医療行為あるいは指示行為(投薬や点滴とり、はたまた診療報酬のためのコンピューター入力も今は医者がおこなうべき『行為』です)を、医師でない業種のものが医師の代わりにおこなえるようにする「法」改正こそ有効です。
この代わりの者が、看護師であっても、理学療法士であっても、薬剤師であっても、はたまた日本にはないPhysician Assistantという職をつくるという方法であっても、そのやり方はいろいろでいい。
そして看護師の医療行為の範囲を広げると並行して、介護士のできることを今の看護師並みに広げること。
「医療行為の責任をだれがとるか?」
誰も手をつけたがらないこの「タブー」を上手に扱うことこそ日本の医療問題を解決する鍵だとぼくは思います。

            *

「歴史的にみれば、人間の平均寿命ののびは、医療技術の進歩による影響はごくわずかで、衛生面での改善の影響が主要なものだ」
という、医療技術の進歩ということに対し水をさすような本を学生のとき読んだことがあります。
これはおそらく歴史的な事実であるだろうけれども、今は、発展途上国ではともかく、日本の前の問題の解決には結びつかない事実です。
(とはいえ、以前の手紙で、ピロリ菌感染者が離乳食の変化により減少し、その結果、胃がんの患者が減っていくという日本の事例をあげましたが。これは、めずらしい事例といえます)

看護師のおこなうべきことは、何十年とかわらない一方、医療技術の進歩によって、医師の責任でおこなうべきことは昔とは比較にならないほど増えているというのが問題です。
医療技術の高度化とともに、医師だけでなく看護師の仕事も増やしていくのが理にかなっているでしょう?
そして、医療におけるITの導入。
他の仕事では、仕事の効率化をはかる手段になることもあるのかもしれないけれども、医療の現場では、逆に本来の仕事を圧迫しているのはなぜでしょう?
医療におけるITの導入は、世の中でいわれているような、未来の医療への入り口というよりは、医者や看護師が患者に向かわず、事務や経理のためのデータ入力のマンパワーを肩代わりするというのが一番大きいというのが実際なのです。
つまり、事務・経理の人件費削減、のためのものです。
患者の利益や満足のためという方向とはベクトルが異なっています。

 人件費を削減する企業再生と、病院改革を同列にならべる無神経さを、彼らは少しも恥ずかしいと思わないようです。
ぼくが、研修医時代に、上司からくりかえしいわれてきた言葉。
「患者が、もし自分の家族だったらどう対応する?」
 この言葉は彼らの心に響くでしょうか?届くでしょうか?
まだ、悪名高き医者の方が、彼らより、人間らしい心をもっているような気さえときにします。
本質的に、医療は、水道、電気、ガスのようなもので、完全な市場原理にはならず、ある一定の国からの介入・調整がいるものなのです。
(労働や土地はなぜか市場原理にのってしまったのですが)

          *

一般の訴訟での原告の勝訴率が70~80%とすれば、原告の勝訴率は医療訴訟では30~40%と低率。
これを、どう解釈するか?
まず、象牙の塔、権力にはかなわないので、医療訴訟では原告が負けやすいという解釈があります。
しかし、一方、患者側の思い込みによる裁判が、医療訴訟では多いと解釈することもできるでしょう。
全体として、そんなに、ひどい医療はおこなわれてない、というのが、あちこちの病院をまわってきたぼくの印象なのですが・・・世の中の風潮、とくに「問題意識の高い」「良心的な」人たちはそうは思っておらず、前者の解釈に賛成するケースが多いようです。
その証拠に、新聞記事には、医療裁判がおきたことは掲載されるが、その結果、原告側が敗訴したことはほとんど報告されないのですから。

 ここで、注意してもらいたいのは、病院側にあきらかに非がある場合には、裁判にはならない、という点です。
 ここでの医療訴訟は、法律違反をした罪人に対する刑事訴訟ではなく、離婚調停のような民事訴訟であるということ。ここが、なかなか理解されにくいところだと思いますが、理解のポイントになります。
 患者から、損害賠償請求があったとき、病院側では、裁判にするかどうかの検討をおこないます。
このとき、患者側が請求してきた慰謝料を、病院側が素直に出せば、裁判になりません。示談が成立することになります。
つまり、病院側も認めるような医療ミスは、裁判にならないのです。
実際は、こちらの方が、医療事故という観点からすれば問題なのですが。
裁判は、病院側が、患者側の請求をのめないときにはじめて成立します。
実際は、保険会社と相談するという、露骨な経済原理が働いています。
病院側は、起こった事例の経過と、患者側の請求額を、もともと病院が加入している医療訴訟関連の保険会社に問い合わせます。
その保険会社が、それは医療側に非があり慰謝料のためにお金をはらうために保険を払わざるをえないと判断すれば、裁判にならない。保険会社が、それは医療側に非がない、裁判すれば勝てるはずだから保険は支払いません、と判断すれば裁判になるのです。
保険会社はなるべく保険料を支払いたくないから、しばしば、裁判をおこさせます。
病院側としては、不名誉だから、本当は裁判にしたくはなくても、結局、支払わねばならない賠償金が保険会社からもらえないなら、背に腹はかえられません。保険会社のいうように、裁判をおこすことになります。
 ここでは、患者側の救済という目的は、どこかへ消え、病院側が、保険会社からどうやって保険金を得られるか、要するに、保険会社がどれだけ損をしないですむか、ということが、問題の中心になってくるのです。
 万が一のとき、裁判という方法を介さず、患者を救済できるような制度ができるのが理想です。
買うことのできない愛を金で買うことで、金は非難にさらされる。
しかし、金によって憎悪の連鎖をたちきることができるのならそれは意味のある正義です。
しかし、現実には、裁判というのは、このような志の高いシステムではないのです。

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