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【書評】カール・シュミット『現代議会主義の精神史的状況』--対話に勝るものなし

 前半の議会批判はわりと良いことを言っている。曰く、元々討論というのは自分の利益とは関係なく、正しい議論に自分を開き、相手が自分より良いことを言ってると思えば柔軟に意見を変える、というオープンなものだったはずだ。
 しかしながら現代は違う。皆が大企業などの利益団体の代表に成り下がり、ただ複数の利益の間を調整するだけとなってしまった。大事なことは小さな委員会で話し合われ、本会議場では形式的な議論しかなされない。そうすると、議論によって真理に至るという議会の意義も、もはや失われたと言わざるを得ない。
 これは現代においても皆が感じていることではないか。たとえ自分が投票に行ったとしても結果は左右できない。あるいは、国会でいくら会議がなされても結局は正しい者より強い者の意見が通ってしまう。
 しかしながら、ここからがシュミットは違う。むしろ民主主義的な投票より民衆の直接的な喝采によって独裁者を選んだほうが、多くの人の意見が集約できるのではないか。そうやって選出された独裁者は、多数の議員よりも民衆の意見を反映しているのではないか。
 こう考える人がいることは、最近のトランプ現象を見ていてもよくわかる。しかしながら、こうした考え方の欠点も明白だ。それは一言で言えば、独裁者は必ず間違う、ということだ。
 独裁者に選ばれた人物がどんなに優秀で偉大であっても、残念ながら絶対に自分の視点からしかものを見ることはできない。そうした偏りを正すには対話によるしかない。なので独裁的になった国家も企業も必ず没落するのは、歴史を見ても明らかだ。
 要するに、カール・シュミットは対話の意義を腹の底からは理解していない。彼はジョン・スチュアート・ミルの対話の議論を古臭いものとして切って捨てるが、今の視点から見れば、むしろシュミットの議論の方がミルより古臭く見える。
 しかしながら、時代の証言としてはシュミットの議論は今も大きな価値を持つのだろう。あまりにも人々が民主主義に絶望し過ぎれば、やがては独裁者を待ち望むようになるというメカニズムがよくわかる。シュミットの問題点は、そうしたことを批判的に捉えられなかった、という彼の弱さではないか。

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