見出し画像

某週刊誌の「叱る」の記事について-叱る(6)-

某週刊誌に「叱る」の特集があった。「叱る」を定義せずにふわふわ進む記事だった。

叱られる機会が少ない若い子は「もったいない」という文脈の記事だ。厳しい指導の機会が減っているから、「叱れ、正しく」というような記事だ。

大半の人は誤読する。以前、フィードバックに関する大御所の本も極めて誤読しやすい書き方だった。本記事も精読しないと「叱って良い」「厳しくしてよい」という誤解を生みそうな記事だった。

また、本と比べて週刊誌は影響力が大きいため、「こう書いてあった」と言われかねない。そうしたときにいちいち記事を引っ張り出すのも面倒だ。

なので、雑感を書いておく。

--

本記事では、まず、叱るを定義する前に、叱る目的を3つ挙げていた。

叱る目的①正しくないことを知らせ、改善を促すこと?

1つ目は、「正しくないことを知らせ、改善を促すこと。」ここは「叱る」でなければ同意できる。
ただし、叱るではなく、フィードバックとし、「正しいこと、正しくないことを伝え、改善を促すこと」とすればフィードバックのことだ。
フィードバックの強化の機能と弱化の機能をわけ、弱化の機能に「叱る」を充てていると言える。
ただ、それって「叱る」なのかというのが僕の疑問だ。
叱るは、辞書的にいうと、「上の立場から責任を問う、責める、咎める」ことよ?

叱る目的②と③規律維持と奮起を促す?

次に、2つ目は「規律維持」とし、3つ目を「奮起を促す」とした上で、3つ目を時代遅れとしていた。

今どき叱られて奮起する人もいないだろうから、奮起を促すが時代遅れなのは同意する。

しかし、叱るの目的は規律維持なのか?僕は「叱る」は排斥の一種であると考えるが、とある研究によると、排斥は組織市民行動の逆である組織阻害行動を促す。組織阻害行動とは、例えば、規律違反やコンプラ違反のようなものだ。

叱ると規律が維持されるというのは幻想ではないか。

となると、いよいよ「叱る」がどのようなものとして定義されているかが怪しくなる。

--

本記事には、定義は書いていなかったが、怒ると叱るの違いが書いてあった。

まず、怒るとは自分の中で生じた怒りをぶつける行為で目的は攻撃、とあった。しかし、僕はこの考えは広すぎると思う。

怒るとは自分の中で怒る(起こる)ものであり、対象がその場に居合わせることはあっても、自動詞であり、一人で完結する活動だ。僕は自分の拙さに怒ることがあるが、誰かを怒ることで攻撃しているとは思わない。

叱るの目的は、部下の行動変容とあった。先程の3つの中には含まれておらず、多少謎だが、おそらく規律維持のことだろう。

叱るの定義はないけど、叱ると部下は成長しないというデータがある。行動はするかもしれない。怖いから。ただ、それで成長するかは疑わしい。

更に、耐性がつくとあった。それは間違いなく、叱られると耐性がつく。

ただ、それな良い結果のように書いてある。厳しい指導がうけられない若手は「もったいない」ので、どんどん叱れと誤読されやすい文章になっている。

叱ると耐性がつくので、次はより強く叱る必要がでる。そうしたらまたうごく。その経験が「叱れば成長するという思い込み」につながり、ハラスメントにつながるのだ。

それは組織荒廃の道であり、悪記事であると僕が断じる最大の理由である。

その他、「叱る」についてはまだ道半ばだが、マガジンにまとめてあるので、参照のこと。


この記事が参加している募集

読書感想文

仕事について話そう

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?