PERFECT DAYS 〝こんなふうに生きていく〟ことの悲哀と影
『PERFECT DAYS』は語るのが非常に難しい映画だ。〝映画〟としての完成度や役所広司の演技については文句のつけようがないのだけれど、どうしても引っかかってしまう部分があるので、それについて記そうと思う。
まず思ったことだけど、なんか、リアルじゃないと思った。僕が言うリアルというのは、例えば、
「林檎は赤い」
という表面的なリアリズムではなく、
「林檎を食べた。ナイフを使って皮を剥いたら、蜜のたっぷり染み込んだ果実で、大きな口をあけてかじったら、瑞々しい甘さを含んだ果汁が口いっぱいに広がった」
というような、言い換えると〝実感〟のことである。
この映画、――外国人であるヴェンダース監督の作ったこの日本映画――は、いうなれば〝日本の清貧ファンタジー〟だと思った。生活に根ざした実感が伴ってないのだ。
こんなこと言いうのは憚れるけど、そして重箱の隅をつつくようだけど、所謂ブルーカラーの慎ましやかな生活の割には、金銭感覚がおかしい。平山は基本的に外食だし、フィルムの現像だって今はなかなか高額だよ。僕は以前、平山のように自炊せず、自宅にできる限り家電をおかず、食事は外食で洗濯はコインランドリーで生活していたことがあるのだけど、生活費がカツカツで大変だった。共同脚本の電通の人よ、あなたの金銭感覚で描いてないですかい。
それに、ああ言う家も、住むの結構大変だよ。夏とか冬とか。ハードな現実を取り払って、キャッチコピーの〝こんなふうに生きていけたなら〟というのを、電通が作っていると思うと、「お前らがそれを言うか??」と言う気持ちにどーしてもなってしまう。電通の脚本家よ、表面の一部分を切り取ってないか? ちゃんと、そのような生活を送っている方々に敬意を持って話を聞き、丹念に調べ、描いているか? 雑誌の特集のようなニュアンスでこのライフスタイルを提案してない?
(まぁ、このライフスタイル自体は否定しないけど。自分だって似たような生活してたし)
また、いきなりTokyo Toiletの文字がデカデカと映ったときにはズッコケそうになったけれど、渋谷区が協力しているトイレ浄化の影には追い出されたホームレスが存在しているのも事実だ。このプロジェクトのプロパガンダである本作を電通がこしらえているという事実を踏まえると、言いたくなる。「お前らがこれを作るのか?」と。
どうしても目につくのが、この映画のキャッチコピー。ほんと嫌だなと思うのだけど、それは自分が平山に似た生活を送っていたこともあるからなのかも知れない。そんないいもんじゃないよ、と思うのだ。なんか電通に自分たちの生活の一部分を切り取って消費されているような気がするのは、被害妄想かしら?
閑話休題。
ラストシーンについて。平山の父親のくだりや、三浦友和の登場で、なんとなく〝死〟の影が浮かび上がってくる。平山の最後の涙は、きっと、そう遠くない〝死〟を意識したときに、「もう自分の人生は取り返しのつかないところに来てしまった」という、後悔などの色んな感情が、真逆の心情を歌うニーナ・シモンの曲でブーストし、流れた涙なのだと思う。だから、凄く胸を打たれた。この部分においては他人事じゃない気がしたから。
(ちなみに、ニーナ・シモンは黒人である事で差別を受け、音楽学校への進学を挫折している。平山もなんらか芸術の道に進もうとしたが挫折したのだろうか?そこでの確執が父とあったのかな?等考えてしまった)
だからこそ、「こんなふうに生きていけたなら」とは僕としては思えない。むしろ、「こうなったらマジで怖いな」のほうがしっくりくる。
この恐怖を踏まえて、「これから先、同じような心情になることもあるだろうな」と思ったから、感動したのだけど。
まあ、色々言いたい事はあるけど、様々な制約のなかで、ヴェンダースは良い映画を作ったとは思う。自分にとって身近な場所や人、電気湯とかフラッシュ・ディスク・ランチや、柴田元幸さん、古書店やコインランドリーがスクリーンに映るのは、とても嬉しいし。
このような複雑な気持ちにしてくれるのも映画のいいところだよね。
そういえば…柴田元幸さんがパンフレットでフォークナーの『野生の棕櫚』と平山の結びつきについて論じておられて、流石の視点だった。平山が読んでる新潮文庫版は廃刊なので古書店では高額で売られており、ずっと読みたいなーと思っていたのだけど、ちょっと前にようやく中公文庫から新訳が刊行され、購入したは良いが積ん読にしていた…。読んでおけばよかったなぁ。
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