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境界線を消し、夜の街に去っていった一人の男について

「我々は愛についていったい何を知っているだろうか?」とメルは言った。「僕らはみんな愛の初心者みたいに見える」
レイモンド・カーヴァー 『愛について語るときに我々の語ること』

 2021年も終わろうとしている。今年観た映画のなかで、とりわけ強烈な印象を残した映画について書いておきたい。それは、『愛について語るときにイケダの語ること』という作品だ。

 生まれつき四肢軟骨無形成症(通称コビト症)を持つイケダさんは、39歳の誕生日目前でスキルス性胃ガンステージ4と診断された。死が目の前に現れ、「今までやれなかったことやりたい」と考えた彼がとった行動は、“ハメ撮り”だった。彼は自身のセックスを映像として残していき、あるとき、友人の脚本家である真野勝成さんとの会話の中で、自分自身を映画にすることを思いつく。死期が近づき、「僕が死んだら映画を完成させて、本当の姿をみんなに見せてほしい」という言葉とともに渡された映像を、真野勝成さんは本作の編集をおこなった佐々木誠さんに渡す。そうして出来上がったのが、この映画だ。

 真野勝成さんとイケダさんは、佐々木誠さんの映画『マイノリティとセックスに関する、極私的恋愛映画』を本作の中で鑑賞していることが分かる。(この映画もまた、ドキュメンタリー映画の構造を逆手に取った問題作)この出来事があったからこそ、佐々木誠さんが映像を編集することになったのだろう。さらに、本作と同様に佐々木誠さんは自身の監督作『ナイトクルージング』でも劇中劇が登場する。両作品とも虚実皮膜がテーマの一つであり、本作も編集においてその手腕が存分に発揮されている。事象とメタとの境界線が曖昧になり、そこから真実が浮かび上がると言う意味では、実はかなり共通項の多い作品なのではないかと思った。

 前段が長くなったが、この映画は障がいを持った男を描いたお涙頂戴感動ポルノではないことを、まずは強く言っておきたい。でも、僕は映画を鑑賞し終えて思わず涙をこぼしてしまった。この涙の味は、映画を観て心を揺さぶられたときに出る涙ではなく、友人を亡くしてしまったときの埋めがたい喪失感による涙と同種のものだ。

 本作の軸になるのは、イケダさん自身が撮影した“ハメ撮り”や自己を映した映像と、真野勝成さんがカメラを持ち、死へと接近していくイケダさんを撮った映像だ。〈イケダ主観〉と〈真野主観〉という二つの視座を持った映像を第三者である佐々木誠さんが編集するという特殊性に加え、作品内で劇中劇が行われるという入れ子構造も持っており、やや複雑な作りになっているのだが、映画全体にイケダさんの人柄である親しみやすさが横溢し、非常に見易い作品になっているのは特筆すべきポイントと言える。ちなみに、僕は鑑賞し始めた際にビリー・ワイルダー監督『サンセット大通り』を思い浮かべた。劇中で死んだ登場人物が語り出す有名なオープニング。しかし『愛について語るときにイケダの語ること』に関して言えば、本作の中でくだらないことや真面目なことを話すイケダさんは、本当に亡くなっている……。なんだか僕はこの映画を鑑賞しながら、生と死が共存しているような、そしてスクリーンの向こう側とこちら側の境界が無くなるような、映画を観ていて初めて味わう感覚を覚えたのだった。

 この映画の出来事で印象に残るのは、劇中劇として配置された疑似恋愛の描写だ。黒澤明の『生きる』のパロディから始まり、イケダさんの家で鍋をつつき、二人でソファに並び、女性から思いを告白する……。真野さんにより、イケダさんのためにお膳立てされた虚構、〈理想のデート〉の中で、イケダさんは本音を語る。普段話すような皮肉や冷笑、照れ隠しの下ネタといったレトリックを交えた言葉ではなく、非常に真摯とも言える言葉を、相手役のサトミさんに話す。フィクションの中で真実が描かれているのだ。嘘と本音、創作と現実が翻るこのシーンを見たときに、ああ、これは〈映画〉の映画なんだ、と思った。遺言の通りイケダさんは〈映画〉そのものになったということだ。

 ただ、このようなメタ構造がこの映画の核なのかと言われると、それは違う気もしてくる。イケダさんの魅力こそが、この作品を傑作たらしめる最大の要素なのだから。
 知的で、物腰の柔らかいイケダさん。ちょっとシニカルだけどユーモアを忘れないイケダさん。病室でSPA!や裏モノジャパンを読み、石原さとみのグラビアを真剣な眼差しで見つめるイケダさん……。たった一時間で、一人の人間にここまで魅了されるなんて初めてだ。

 果たして、愛とはなんだろうか。エーリッヒ・フロムは、こんなことを言っている。
「愛は、人間のなかにある能動的な力である。人をほかの人々から隔てている壁をぶち破る力であり、人と人を結びつける力である」
 この言葉を体現するかのごとく、イケダさんが矛盾や葛藤を抱えながら愛を模索する姿こそが、愛というものを語っているように思う。愛はある意味でメタな構造を持っているのだ。そう考えると、この作品のタイトルもまさに言い得て妙と言えよう。

 さて、愛を語る時に自分は一体なにを語ればいいのか。できるならば、イケダさんと飲みながら語り合いたい。この映画を観た人は誰もが思うだろう。せめて僕は、イケダさんのように生きたいと思う。そうしたらいつかは、僕も愛というものに辿り着けるかも知れないよね。

https://ikedakataru.movie/


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