伝説を訪ねる鎌倉散歩 Vol.02 -建長寺とカラス天狗伝説-
鎌倉市議会議員高橋浩司と巡る、ちょっぴりマニアックな鎌倉散歩。
前回は建長寺に残る「けんちん汁伝説」「龍神伝説」をお伝えしながら境内をご案内しました。
建長寺と河村瑞賢、そしてカラス天狗伝説
今回は方丈(本堂)からさらに奥に進み、江戸時代に日本沿岸の航海路を開拓した河村瑞賢さんの墳墓、建長寺奥院のミステリーエリア、半僧坊へとお連れいたします。
建長寺と河村瑞賢
半僧坊へ向かう道の途中に河村瑞賢墳墓の入口はあります。
△ 河村瑞賢墳墓入口
瑞賢さんは、三重県の出身で立身出世を志して江戸に出ます。しかし上手くいかずに挫折して帰郷しようと歩いている途中、お盆の送り火を焚いた後の茄子と胡瓜が川を流れて来たのをみつけます。それを拾って漬物にしたら大当たり。以来事業が軌道に乗り財を成したといわれています。
江戸の大火事の際には東北へ飛び、山林を買い付けて木を伐り簡易ダムを作ったそうです。春に雪解け水がそこに溜まり、切り倒した材木が浮いているのを確認して一気に堰を切って麓の川まで材木を流しました。川下に流れ着いた木材でいかだを組み江戸まで運んで大儲けをしたそうです。
そうした知恵が幕府に認められ、幕府の命で銅山の開発や東回り航路、西回り航路の航海路を策定し、流通の分野や測量技術、治水などに大きく貢献しました。
日本土木学会が選ぶ「日本の土木技術者200人」にも選ばれています。
晩年は、建長寺の会計責任者をしながら境内に居を構え、自宅の井戸水で茶の湯を楽しみ余生を送ったそうです。瑞賢が愛用していた茶釜は、後に赤穂義士が吉良邸に討ち入りするときに、現在鎌倉に家元邸がある茶人山田宗徧がお茶を点てるのに使ったと伝えられています。
河村瑞賢墳墓入口の道標を左に入るとかなり急な階段があり、最初の20段は緩やかですが途中からとても急になります。手すりにつかまりながら登って20段くらいで一度休憩、意を決っして残りの20段。
墓前に着くころには「はーはー」肩で息をする状態になります。
△ 河村瑞賢墳墓へと続く階段
墓所全体はとても広く200坪位。ここに家を建てて住んでいました。入口左奥にある井戸で水を汲み、茶道を嗜んでいたそうです(現在使用できるかは不明)。
△ 河村瑞賢が実際に使っていた井戸
手前に建っているのが瑞賢の息子通賢の墳墓で、奥にあるのが瑞賢の墳墓です。昭和9年に瑞賢さんの偉業を顕彰するため組織された「河村瑞賢墳墓保存會」によって建立され、当時1万円以上の寄付が集まったそうです。現在の貨幣価値で5千万円くらいとなります。
以来毎年、祥月命日の6月16日には建長寺の僧侶の方々により「瑞賢忌」として墓前法要が行われています。
昭和9年以降、長年墓前周辺の整備は行われていませんでしたが、日本土木学会「日本の土木技術者200人」の選考に合わせて、改めて「河村瑞賢墳墓平成保存会」を組織し、国土交通省の基金を活用して再整備を行いました。その時、私も事務局長としてかかわらせて頂きました。
△ 息子通賢の墳墓(右手前)、瑞賢の墳墓(左奥)
△ 河村瑞賢の墳墓前にて
息も整いましたので、最終目的地の「半僧坊」に向かって参りましょう。
墓前から山岳コースで「半僧坊」まで登っていけます。しかし、今回は階段を降りて正面から行きたいと思います。
階段を降りて左に向かって歩いていくと大きな達磨大師の座像が登場します。達磨大師は、お釈迦さまの10大弟子の一人で迦葉の流れをくみ、お釈迦さまから数えて28代目とされています。
その達磨大師から数えて11代目が臨済で臨済宗の宗祖となります。ここ建長寺は全国15カ寺ある臨済宗本山の1つでもあります。
△ 達磨大師座像
達磨大師を過ぎると急に空気が変わります。
ふと見ると参道の横にカエルが…なんで?(笑)
△ 伝説のカエル?
そして前をみると、なぜかお寺なのに鳥居が現れます。
△ 半僧坊へと続く参道の鳥居
いよいよ、カラス天狗が待つミステリーエリアに潜入です。
鳥居を2つくぐると、またしても階段…この階段が、なんと253段。
地獄の強行軍です。
△ 半僧坊入口
息も絶え絶えに170段程登るのに何度休憩したことか…
ふと、見上げると沢山のカラス天狗が天に向かって念力を飛ばしながら迎えてくれます。
△ カラス天狗が立ち並ぶ参道
△ カラス天狗像
ここまで来れば頂上までは、あと一息。といってもまだ83段もあります…21段上ると急な階段と緩やかな階段の選択チャンス!
緩やかな階段は女坂。女坂は緩やかですが遠回りなので、正面からずばっと行きます。
階段を登り切ると「半僧坊」本殿。
△ 半僧坊本殿
本堂にお参りして、振り返ると鎌倉の街や海が一望できます。素晴らしい景色です。西の方には富士山も。
△ 「半僧坊」登頂の様子
さて、どうしてこの山の上にカラス天狗像が一杯建っているのでしょうか?「半僧坊」という変わった名前はどこからきたのでしょうか?
最後に「カラス天狗伝説」をお伝えいたします。
話しは遠く現イスラエル、ユダヤの失われた10支族の物語に遡ります。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の元といわれるアブラハムは、子宝に恵まれなかったのですが放牧中に神様から子孫繁栄の約束をされます。
それでもなかなか子どもができずに100才近くとなってしまったため、夫婦で相談して奥さん(サラ)以外の女性に子どもを産んでもらうことにしました。
その女性ハガルとの間に生まれた子ども、イシュマエルがイスラムの民となり繁栄することとなります。
その後奇跡的に90才を過ぎたサラとの間にも子どもを授かります。奥さんの産んだ子どもはユダヤの民となり今日の繁栄に繋がっているといわれています。
奥さんのサラが産んだ子供はイサクと名づけられます。時は経ち、イサクの子どもヤコブは13人の子どもを授かります。ヤコブは、国を治める程の勢力を持ち自分の子ども達に領土を分けて統治させます。
子どものうち1人が作ったグループはラビ族と呼ばれ全ての部族の神事を取り仕切りました。そして、他の12人はそれぞれの国を治めていました。
ところがある日、南と北に分かれ戦争となります。南は2人の子どもの連合軍。北は10人の子どもの連合軍です。
結果負けたのは北の連合軍。
負けた10人の子ども達の国に住んでいた国民はすべて土地を追いやられました。その時国を追われた人たちが世界中に散って行ったという話が「ユダヤの失われた10支族」というの伝説です。
実は世界中に散って行った部族の一部が日本に渡来したといわれています。聖徳太子の側近であった秦河勝、雅楽の東儀家や羽田家なども末裔だとか。しかし、顔かたちや背格好の違うユダヤの民が日本に渡来し、どうやって身を隠しながら生活していたのでしょうか。
その昔、山菜採りに行った村人が鼻の高い大男に遭遇し、あれは高下駄を履いたカラス天狗様に違いないという噂になり、村人は山に近づかないようになったそうです。それが「カラス天狗伝説」の始まりです。
その伝説を裏付ける足跡は日本全国にあります。そしてここ建長寺にもひっそりと残っていたのです。
信じるか、信じ無いかは、あなた次第。
それでは伝説を訪ねる鎌倉散歩 (建長寺編)は、ここまで。ご紹介した数々の伝説を想像しながら訪ねてみてください。
次回の鎌倉市議会議員の高橋浩司と巡る、ちょっぴりマニアックな鎌倉散歩もお楽しみに!
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