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【小説】不器用に歩く二人(23枚)

 ミコが、倒れている少年を見つけたのは、彼女がようやく人間の歩き方ができるようになった頃だった。両脚がおかしなところで曲がっている感覚が気持ち悪く、立ち上がったり転けたりを繰り返しているうちに、違和感が薄らいでいった。

 朝の日差しがまばらな森の中で、少年は老木の根元でうつ伏せになって倒れていた。右足にはギプスをつけていてすぐそばには松葉杖が転がっている。その白さは土や葉の色の中で際立つ。

 ミコは膝をついて、彼の背中を揺すった。短いうめき声を上げながら、彼は体をゆっくりと起こした。頬や手の肌は色白でつやがあり、か弱い印象を与えた。顔を上げると、彼は途端に慌て出してミコの体から目を逸らした。そして、下敷きになっていたビニール袋をミコに突き出した。

「ちょっと、これ着てよ」

 袋の中には服が入っている。ミコは裸だった。しかし、衣服を前にして、どうすれば良いかがわからない。

「いいから早く、着て」
「……どうやって、着るの?」

 ミコが問うと、彼は怪訝な顔で彼女を一瞥した。ミコが服を着たことがないのは仕方のないことだった。なにせ、彼女はついさっきまで狼だったから。

 その町は、間森町と呼ばれている。名前の通り、森の間に点々と家が並び、棚田が広がる、標高の高い町。ミコは町の東側にある岩がちな森で暮らしていた。

 ミコにとってそこは心理的に窮屈な世界だった。周りの狼たちは、両親も同い年も揃って人間を敵視していた。「私たちを銃で殺す」や「住処を奪う」という言葉が常に飛び交っていたが、ミコにとってそれらは実感がなく、八つ当たりのようにしか見えなかった。人間の話をすることはタブーのような雰囲気で、ましてや接触することなど持っての外。その理由がわからなかった。

 ミコが小さい頃、彼女を親以上に可愛がっていた長老がいた。彼は日光が苦手で、いつも森の奥の方で、平べったい岩の上で寝転んでいた。

「ねぇ爺ちゃん。どうしてみんな人間のことが嫌いなの」

 長老は無言で尻尾をはためかせた。考えているときの癖。

「ミコはそう思わないのかい」
「うん」
「なら、それでいいんだよ」

 長老は人間の暮らしについていろんなことを教えてくれた。何を食べるのか、どのように暮らしているのか。「他のみんなには秘密だよ」が口癖だった。

「ねえ、さっきから大きな足音が聞こえるよ」
「あれは大太鼓だよ。町の人たちが春の訪れをお祝いしているんだ」
「オイワイ?」
「お祭りさ。みんなで集まって、お祝いするんだよ」

 長老は一つ、あくびをした。

「みんなで集まるのは、楽しいな」
「私は一人でもいいもん」

 ミコは長老のお腹に顔を埋めた。腹の毛は乾燥していて脆かったけど、温かかった。

 家出をしたのは昨晩のことだった。ミコは洞穴の隅に人間の品を密かに集めていた。靴、軍手、空き缶、釣り竿、虫取り網。特に空き缶はお気に入りで、輝く青と灰色の模様が湖の底を彷彿とさせた。

 それがみんななくなっていた。ミコが外出している間に、父が全て川に捨ててしまっていた。

「自分がどれだけ危険なことをしたのかわかっているのか」

 毛を逆立てたミコに向かって、父は冷静に言った。

「うるさい。何が危険なのか言ってみてよ」
「有害なものかもしれないだろう。困るのはお前だけじゃないんだ」
「昔、長老が大丈夫って言ってくれたもん、わからずや」

 父は呆れたような顔で母と目を合わせた。二人の目配せの意味がわからず、余計に腹が立って、とうとう洞穴を飛び出した。

 あてもなく走り回った。川を飛び越え、岩をよじのぼり、草むらをかき分けた。そして、朝日が差し込めた時、突然ミコは上手く走れなくなった。思い通りに体が動かない。

 手足を見つめ、体を撫でた。……人間になっていた。


 少年の見様見真似で衣服と格闘した結果、ようやくそれらしくなった。初めての服はポロシャツに半ズボンだった。

「着れた?」
「うん」

 少年は振り向くと、

「裏表が逆だよ」
「ウラオモテ?」
「まあいいや」

 少年は杖を頼りに、立ち上がる。

「起こしてくれたんだ」

 と言って、ミコに目を合わせる。人間と初めて目があった。どういうわけか、ミコは尻餅をついてしまい、痒くなった胸の辺りを手のひらでさすった。

「どうしたの」

 差し出された手にミコは首を振り、自分で立ち上がった。杖つきの彼に少し遠慮した。

「なんでもない。一人で寝ていると何があるかわからない、でしょ」

 昔、父に注意されたことをそのまま口にした。

 少年は「うん」と言って頷くと、やや顔を顰めて頭に軽く手を当てた。その表情はすぐに笑みでかき消されて、

「多分、こけたときに頭をぶつけちゃって」
「そっか」

 転けただけで気を失ってしまう。人間にもそんなのがいるのか、と意外に思った。そう思うと、彼の一挙一動がとても危なっかしく思えてくる。

「君の言う通り……って君、名前は?」
「ミコ」
「僕、大地」
「似合わない」
「うん、そうかも」

 大地は少しだけ俯いた。ミコの擦りむいた膝が目についたようで、

「その傷……」

 歩く練習をした時の傷。

「大丈夫だから」

 ミコは大袈裟に膝を曲げて、数歩だけ後退りをした。彼に気を遣われるほど、私は弱くない。彼は何度か念押しで心配をしてきたけれど、ミコは全てに首を振った。彼の助けを借りたくなかったというより、差し伸べられた手に対して、首を振ることしか知らなかったのだ。

「じゃあ、服はまたいつか返してよ」

 大地は去り際にそう言った。松葉杖を構えて、体の向きを変えようとする。その時、彼の体が大きく傾いた。思わず彼の肩を掴む。ミコは素足で土を力強く踏み締める。大地は息が詰まったように喉を鳴らして、

「ありがとう、びっくりした」

 体勢を立て直して、再び歩き出す。ゆっくりと慎重に。彼のTシャツは汗で背中に貼り付き、泥で汚れていた。あまりの頼りなさに、

「大地、送っていくよ」

 言葉が口をついて出ていた。


 大地の家までの道のりを二人は並んで歩いた。松葉杖に慣れない少年と二足歩行に慣れない少女は、ゆっくりと歩を進めた。森を抜けて、用水路を跨ぎ、棚田を上がっていく。二人が進める場所を探すために、たくさん遠回りをした。その間、ミコは大地の話を聞いた。

 彼は普段、東京に住んでいる。ミコは東京がどのような場所なのかわからなかったが、人間にとっての大きな森なのだと考えた。春休みの間だけ、大地は両親の元を離れて祖父の家で過ごすことになった。祖父は大きな家に一人で暮らしており、ほとんど家の外で仕事をしている。よって大地は孤独と退屈を持て余しており、今日は気を紛らわすために簡単な釣りをするつもりだった。彼が持っていた衣服は、水に濡れた時のための着替えだった。

 大地の家はアスファルトの坂道を登った先にあった。焦茶色の木材と鼠色の瓦でできた大きな平家。玄関前で寝ていた黄色い猫が、二人の到着を見て走り去っていった。

「中においでよ」

 大地は引き戸を横にずらして、手招きをした。見送るだけのつもりだったけど、好奇心に負けた。

 大地は玄関で靴を脱ぐと、裸足だったミコに向かって、

「タオル持ってくるから」

 と、家の奥へと消えた。家の中はほんのりと煙の香りがした。

 和室に上がると、大地は器用に足を折りたたんで机に座った。畳の上で四つん這いになっているミコを見て、

「あぐらも知らないの? 変なの」

 と笑って、座り方を教えた。

 大地はちゃぶ台の上にあった饅頭を一つ手に取り、ミコに差し出した。

「何、これ」
「黒糖まんじゅう。おいしいよ」
「食べ物?」
「そうだってば」

 恐る恐る口に運ぶ。柔らかい皮から、餡が舌にこぼれる。

「おいしい?」

 咀嚼する様子を大地は真剣な瞳で眺める。ミコがもう一度かぶりつくと、彼は満足そうな顔をした。

「お茶も飲んでよ」

 湯気の立つ湯呑みを前に、ミコは体をかがめて水面に舌を伸ばす。

「そんな飲み方したら」
「熱っ」

 反射的に顔を引っ込める。勢い余って後ろの障子に背中から倒れてしまった。それを見た大地は腹を抱えて笑って、そのまま地面に寝転んだ。

「おかしいね、ミコは」

 少しムッとして、

「じゃあどうやって飲むの」

「冷めるまで待てばいいよ」

 昼頃になると、霧のような雨が降り始めた。破れた障子の隙間から、白く霞んだ田園風景と森が見えた。昼食はご飯と冷蔵庫に残っていた焼き鮭。ミコはフォークの扱いを覚えた。今まで味わったことのないものばかりで驚いたが、不思議と馴染むことができた。ひょっとすると、感覚はすでに人間になっているのかもしれなかった。

「寒くなってきたから、エアコンのある部屋に行こうよ」

 食器を片付けて帰ってきた大地はそう言って、隣の部屋に案内してくれた。天井が少し高くて、木製の壁が明るい部屋だった。他の部屋よりも新しい。ソファやテーブルに加えて、カーペットも敷いてある。ミコにとって全てが珍しく、興味をそそるものばかりのはずだった。しかし、彼女の視線を釘付けにしたのは、猟銃と狼の顔の剥製だった。

「ミコ、エアコンのリモコンに手が届かなくて……」

 大地はミコが呆然と立ちすくしているのに気がつき、

「剥製、びっくりしちゃった?」

 ミコは大地の声にふと我に帰り、それから自分の頭や尻を撫でた。耳や尻尾が付いているわけないけれど、自分が本当に人の姿なのかが心配になってしまったからだ。

「それはお爺ちゃんが昔作ったんだよ。その銃もお爺ちゃんので」
「そうなんだ」

 ミコの声は少し震えている。

「今日も猟に出掛けてるんだよ。もう七十近いのに、すごいよね」

 ミコの頭には、一発の銃声が響いていた。数年前、長老と岩の上で寝ていたときに鳴り響いた音。それに続いて鳥が一斉に木々を突き抜けて飛び去る音。

「じゅう!」

 ゆっくりと目を開けた長老は、

「そうだね」
「逃げないと」
「遠いから大丈夫さ」

 と言って、長老は再び目を閉じた。寝たのかと思って、頬をつついてみると、

「お祈りをしているんだよ。誰にも当たっていませんように、とね」
「私も祈る」
「それがいい」

 たまに「誰々が撃たれた」という話を又聞きする。それでもミコは実感を得られなかった。人間が動物を殺す。そんなことはどこか遠いことのように思われた。

 しかし、いま目の前の剥製に目を合わせると、うすら寒い不気味さが胸の内から湧き出てくるのを感じる。足に力が入らず、正座をするように床へへたり込んだ。

「大丈夫?」

 大地はミコの顔を覗き込んだ。

「僕もあれを初めて見た時はびっくりしたよ。熊とか狼とか、ちょっと怖いじゃん」

「私、戻る」
「え?」
「戻るから」

 ミコは立ち上がり、もたついた足取りで部屋を飛び出した。玄関を抜けて、アスファルトの坂道を下っていく。地面は雨で濡れて色が濃くなっている。後ろから「おーい」と大地の呼び声が響いたが、春雨にかき消された。

 棚田を下って、用水路を飛び越え、森に入った。ぬかるんでいて、足を踏み出すたびに泥が跳ねた。前髪から水が滴り、冷ややかな風が木々を揺らす音が広がる。

 しばらくして立ち止まり、自分はどこに行く宛があるのだろうかと、ハッとした。両親だって、ミコをミコだとは思わない。そもそもどうして自分は人間になってしまったのか。どうしてこんな体になったのか。狼として自分が積み上げてきたものが、突然自分から離れてしまって、心細い。そして、自分はいつ戻ることができるのか。戻りたいと強く思っているわけではない。自分の手足から毛がなくなったとき、神様が自分の思いに耳を傾けてくれたのかも知れないというほのかな高揚感があって、それは今でも続いている。でも、人間として生きていくことへの覚悟は持てなかった。

 夜になると雨は上がり、湿っぽい地上の空気が何かの間違いに思えるくらいに空は晴れ渡った。紺色の空には綺麗な半月が浮かんでいた。狼か人間かの二択を迫るような月。

 ミコは木の根元に腰を下ろし、髪の毛を指に巻き付けては解くことを繰り返していた。誰に教わったというわけでもなく、気づいた時には毛先で戯れていた。すると髪の毛が一本、ぷつりと切れて半ズボンの裾に乗った。

 その時、ぬかるんだ地面を歩く音が聞こえた。音は徐々にこちらへと近づいてくる。顔を上げる。長靴を履いた大地が立っていた。

「ここにいたんだ」

 大地は少しだけ息を切らしていた。本来は綺麗な黄色のはずである長靴は、泥でみっちりと汚れている。

「僕も座っていい?」

 彼はミコのすぐ隣にゆっくりと腰かけた。彼の息遣いが聞こえる距離に思わず、

「服が汚れるでしょ」
「それ、ミコが言う?」

 不貞腐れて、そっぽを向く。ミコは仕返しと言わんばかりに、

「こんな暗いのに、森の中にいたら危ないよ」

 大地は不思議そうな顔をして、

「ミコだって、危ないよ」
「私は大丈夫なの」

 そんなことはなかった。今となっては自分で獲物を狩ることもできない。

「ミコは森に住んでるの?」
「そんなわけ、ないじゃん。森の向こうに住んでるの」
「隣町?」
「うん……って、大地はなんで追いかけてきたの」

 大地は少し伏し目がちに、

「心配だったから」
「そんなこと全然ないのに」
「だって、ここに来てから初めてちゃんと話せた人だもん」
「……そうなの」

 二人の目の前にある長靴の足跡に、ゆっくりと泥水が溜まっていく。

「でも、足が治るまで、歩き回っちゃ駄目だよ」
「でも、家には誰もいないし、春休みは始まったばかりだし」
「一人で歩くのは危ないよ」

 すると、大地はミコに顔を向けて、

「じゃあ、一緒に歩いてよ」
「え?」

 大地の瞳は輝いていた。


 それからというもの、二人は毎日のように共に過ごした。初めの方は、森にやってきた大地をミコが追い返すような形だったが、だんだんと並んで歩く距離が増え、終いには待ち合わせの場所ができるようになった。若葉の生えた切り株がその目印だった。

 ミコは大地が転ばないように足元に注意を払い、大地は二人分のお弁当を持参した。ミコのお気に入りである見晴らしの良い丘の上でサンドイッチを食べた。流れの穏やかな川に突き出た岩に腰掛け、紙パックの野菜ジュースを飲んだ(ミコはあまり好きになれなかったが)。

 歩いているとき、ミコは森について話し、大地は都会について話した。木々や湖が一年を通してどのように変化するかの話をすると、大地は都会で変化するものといえば人々の服装くらいだ、という話をした。森で一番大きな木についての話をすると、大地は東京スカイツリーの話をした。

 それから、お互いの話をした。ミコは自分が狼であることが悟られないような範囲で、両親や友達、長老について話した。不思議なことに、大地は彼女の話を聞いて「ミコは楽しそうな毎日を送っているんだね」と言った。ミコにとってそれはよくわからなかった。例えば、父親がどれほど頑固であるかについて熱弁しても、「面白いお父さんだ」と言われてしまう。ミコは大地の感覚が奇妙に思えた。

 あるとき、大地は自分がどうして骨折してしまったかについて語った。春休みの直前、新しいシャープペンシルを買うためにデパートの文房具屋へ行った。その帰り、エスカレーターに乗っていると隣を一歳くらいの子供を抱きかかえた女性が通り過ぎた。ちょうどその時、子供は手に持っていた棒付きキャンディーを落としてしまった。母親の女性はは気づかずにエスカレーターを歩いて下っていく。大地は足元のキャンディーを拾い上げ、急いで女性の後を追おうとした。その拍子に誤って正面の一つ下の段に立っていた中年男性のレジ袋に肩がぶつかり、舌打ちをされたので、ごめんなさいと言おうとした。その時、エスカレーターの段を踏み外してしまった。

 初めてこの話を聞いた時、ミコは知らない単語がいくつも出てきたけれど、大地がとても優しいということだけはわかった。

「そんなことないよ、僕が鈍臭いだけで」
「違うよ。大地は本当に優しいよ」
「そんなこと、初めて言ってもらった」


 満月の夜。この日はたまたま夜の散歩をすることにしていたのだが、ミコは夕方ぐらいから体の調子が少しおかしく、体の節々が痛んでいた。加えて、若干の吐き気もする。それを大地に悟られないように気丈に振る舞っていた。

 大地は一つ大きな深呼吸をして、

「なんだか、空気が綺麗な感じがするね」
「うん」
「ミコも深呼吸してみなよ」
「......うん」

 息を吸い込もうとした時、右の踵に痛みが走った。大地から借りた靴を履いていたのだが、足が締め付けられる感覚がする。いや、足が大きくなっている? ミコは恐る恐る自分の右足を見た。月明かりしか頼りにならない中で、かろうじて見えた。足首の下だけ、灰色の毛が生えている。人間じゃなくなっている。

 骨が無理やり動かされるような更なる痛みに襲われ、思わず歯を食いしばり、真上を向いた。満月。揺らいで見えた。

「ミコ、どうしたの」

 ついて来れていないミコに気づいた大地が立ち止まる。彼女の肩に手を乗せた。ミコはその手をすぐに払う。

「触らないで」
「どうして」

 わからない。でも、自分は今触られてはいけない、と思ったのだ。

「泣いてるよ」
「違う」
「違わないよ」

 むず痒い感覚が足首からふくらはぎへと徐々に登ってくる。不快な感覚の中から、ある恐怖が湧き上がってきた。大地の優しさに対する恐怖。大地は心配そうに見つめている。でも、目を合わせることはできない。

 突如、背後の茂みから音がした。風が揺らしているのとは異なる、生き物の気配を感じさせるざわめきだった。獣がいる......私たちを狙っている。ミコは直感を取り戻していた。人間の体は非力。生きるためには、本来逃げなくてはいけないはずだった。でも、今ならば、ミコは自分の意思次第で変容を遂げられる確信があった。満月の不思議な力で。

「ねぇ、何かいるよ」

 大地は私の二の腕を掴んだ。抱えたという方が正しいだろうか。

「あぁ、うん」

 顎を引いて、なるべく冷静に答えた。声もおかしくなっていた。いつもより低く、くぐもった感じ。喉も人間じゃなくなりつつある、ようだ。

「大地、一旦、離して」

 本当は離してほしくない。でも、ミコの体温と肌は変容してしまう。その瞬間を大地に感じてほしくもなかった。今だけ、離して。また握ってほしい。

「嫌だよ。一緒に逃げよう」

 獣の息遣いが感じ取れた。感覚が敏感になっている。そこでミコの意識は濁って、失われた。最後まで、大地は腕を握っていた。


 満月が傾いている。一番最初に目に入った。それから、血の香りがした。自分の腕に目をやる。手首は意志の通りに動く。生きているようだ。血に濡れた長い爪が月光を反射している。

 体全体が生ぬるい。汗と体液で体毛が地肌にべったりと張り付き、不快。この温もりはきっと、死体の温もりだ。獣の上に寝転んでいるのだろう。背中から鈍い痛み。昔から狩りは下手くそだった。この時のために、父の指導をもっと真面目に聞いておけばよかった。

 大地はどうしただろうか。無事だといいな、とミコは願う。同い年の人間だと思っていた少女が突然狼になって、獣と殺し合いを始める。そんなものを見せられたら、か弱い少年はどんな反応をするか、想像に難くない。

 大地が好きだった私は、人間の私であって本当の私ではないのだ、と甲斐性もなく自己憐憫に浸った。

「……ミコ」

 声がした。か弱い。そして、自分を包み込んでいた温もりがミコの腰を締め付ける。目線を落とす。少年の小さな頭が私の腹に埋もれている。私に抱きついている。

「守ってくれたんだね」

 逆だよ、と人間の言葉で喋りたかった。いろんなことを教えてくれたのは、君だった。


 大太鼓の音がする。桜の祝福を浴びた春の暖気が、響き合っている。

 間森町の西側にある小さな崖の上には、桜の木が群生している。四月の第一土曜日は、間森さくらまつりの日。町の外からやってくる人が多く、普段では考えられない数の人や車がやってくる。

 借り物のテントと折り畳みテーブルでできた手作り感の溢れる屋台が中心にいくつか並び、少し離れたところでは沢山のレジャーシートが広げられている。

「手を離したら駄目。はぐれるから」

 はしゃぎ回る地元の子供達が、二人を両脇から追い越していった。

「大袈裟だよ、ミコ」

 焼きそばの屋台から、ヘラの甲高い音とソースの香りが伝わってくる。お昼時なこともあり、列ができつつある。

「何か食べる? お財布を持ってきたんだ」
「あの雲みたいなのがいい」
「あれはお菓子だよ。ご飯じゃない」
「後で?」
「うん」

 屋台の周りを一通り巡って、たこ焼きと飲み物を買うことにした。山の斜面に伸びるちょっとした階段に腰掛ける。大地は快晴の空を見ながら、

「昨日まで雨とか曇りだったのにね」

 と言う一方、ミコは食事に夢中のようで顔をやや顰めながら、

「ねえこれ、中に変なの入ってる」
「え? ああ、それがタコだよ」
「噛みちぎれない」
「頑張って何度も噛むんだよ」
「頑張る」

 ミコは、あの夜が終わると再び人間の姿に戻った。川に入って汚れた体を洗いながら、自分はなんと中途半端な身になってしまったことかと嘆いた。私はこれからどう生きていくべきなのか、という迷いを体現したかのような体質だった。こんな私に長老だったらなんと声をかけてくれるだろう。

「大地は、その、帰っちゃうの?」

 空っぽになったたこ焼きの容器を見つめながら、ミコは尋ねた。

「学校が始まっちゃうし」
「そっか」
「でもまた来るよ。ゴールデンウィークとか」
「何それ」

 大地は少し考えてから、

「桜が葉っぱになるくらい」
「待つね」
「うん」

 二人は階段を登って間森空広場へ向かった。山の中腹に造られた、町と桜を一望できる広場。

 階段を登り終えると、そこは人で溢れかえっていた。

「行ってみよう。きっといい景色だよ」

 ミコが大地の手を引いて足を進めようとすると、大地は手を少し強く握り返した。

「どうしたの」
「人混みがちょっと」

 少し顔色が悪いようだった。

「ごめん、ちょっと焦っちゃって」

 自分がなぜ焦っていたのか、よくわからなかった。

「大丈夫。もう大丈夫だよ」
「人が沢山いるの、苦手?」
「ちょっと、都会みたいで」
「戻る?」
「いや、ゆっくり行こう」

 大地は松葉杖を抱え直して、歩きだす。その横顔を見て、ミコは自分が克服しなくてはいけないことが、そういうことなんだと理解した。答えるように手を握り返す。

「私も実は、まだ人混み緊張する」
「一緒だね」
「でも、なんとかするんだ」

 顔を見合わせて、笑い合った。

「応援してる」
「うん」

 二人は背の高い人混みをかき分けながら進んでいく。

 展望までもう少し。

〈了〉

毎日コメダ珈琲店に通って執筆するのが夢です。 頂いたサポートはコメダブレンドとシロノワールに使います。 よろしくお願いいたしますm(_ _)m