人魚の婿取り
俺は、冷えた麦茶をグラスに三杯も飲み干したところだ。
借り物の氷枕を首に当てると気持ちがよくて、やはり体温が異常に上がっていたらしいとやっと自覚していた。
熱中症になりかけて山中でへたり込んでいた俺を、家にまで連れ帰って介抱してくれた親切な男の名は、森川。年は五十手前だろうが、こんな山奥の空気の綺麗なところに住んでいるせいか、やけに若々しく色つやがいい。
こんな深い森に迷い込んだ俺も俺だが、よく人が通りかかったものだ。運がよかった。
昼飯を食っていなかった俺のために、森川はシチューまで出してくれた。「残り物を冷凍したものですまない」と彼は詫びたが、ぱさついたパンやただ腹を膨れさせるだけの素麺なんかよりも、よっぽどありがたかった。夏にシチューとはどうにも季節外れだが、冷ませば喉通りのいいものだったし、肉が体力を回復させてくれる。柔らかく煮込まれた肉は、食ったことがないほどうまかった。
ふうっと涼やかな風が吹き上がって来た。家のすぐ下手にある、流れの緩やかな沢からだ。
この家に到着したときからずっと、その沢で若い女性と小さな女の子が水遊びをしている。年齢から推察すると森川の娘と孫なのだろうが、二人とも森川とは似ても似つかないほどの美人だ。
「氷枕なんかより、川に体を浸した方が早いかもしれないね」
大きく開け放たれたテラス越しに楽しげな二人を眺めながら、森川がのんびりと言った。
「ああ、それはいえますね」
満腹になった腹をさすりながら、俺は応えた。
「ところで、こんな山奥へどうして?ここへ移り住んでから随分経つけれどね、人が来たことなど初めてだよ」
俺は頭をかいた。
「全国に埋もれた伝説やら逸話やらに興味があって、収集して回っているんです。下の集落から道が続いていたので、まだ上に別の集落があるのかと――」
怪訝な顔をされるかと思ったが、森川の反応は何ということはなかった。
「どこにでもそういう話はあるだろうけどね、ここいらにはほかに家はないよ」
「そのようですね」
氷枕を額に当てなおした。シャラシャラと氷のぶつかり合う音が、気持ちいい。
「この辺りに、何か面白そうな話はありませんか?」
「……そうだねえ」
森川は楽しげな声のする川の方へと目を向けた。どうやら心当たりがありそうだ。
「昔話になるが、いいかな?」
「ええ、ええ、勿論。昔話がいいんです」
俺が身を乗り出すと、彼は指を指した。
「そこの川なんだがね」
「ええ」
「人魚が棲んでいるんだよ」
「へっ?」
思わず高い声をあげていた。
山で水にまつわる逸話といえば、かっぱと相場が決まっている。それが、人魚?
「はじめからここにいた、というわけではないんだ。話は、ここから随分離れた小島からはじまるのだけどね――」
森川は、ゆっくりと語り始めた。
* * *
海のない町に暮らす少年ナオにとって、毎年夏休みに祖母の家のある小島に滞在するのは決まりきったことだった。
そして、その海での遊び相手が人魚の少女であることもまた、決まりきったことだった。
二十歳になった夏、いつものように小島にやって来たナオの目の前で、事件は突然起こった。
人魚の銀色の鱗が生気を失い、白く濁ってぼろぼろと剥がれ落ち始めたのだ。
ナオは人魚が死ぬのだと恐れたが、鱗の下からひとの脚が現れると、驚き入った。
本能のように、手に入れたばかりの脚で立ち上がろうとした人魚は、まるきり生まれたての仔鹿のように波打ち際で転んだ。
と、打ち寄せてきたはずの波がさっと割れた。彼女の周りの砂に染み込んでいた海水も、長い髪から滴っていたはずの雫さえ、いつのまにか一滴残らず消え失せ海へと帰っていた。
海が、彼女を拒んだのだ。
悲しげに顔をゆがめて目に涙を溜め、人魚は言った。
「ひとの脚と引き換えに、海には二度と帰れない」
海の魔女と取引をしてしまったのだ。
ナオは、自分の暮らす町に彼女を連れ帰った。
海のない町で、暫くは幸せに暮らした。
それから十年が経った三十の夏、ナオはおや? と疑問を抱いた。
この十年、彼女は歳を取った様子がないのだ。
ナオは考えた。なぜなのか?
彼女からよくよく話を聞きなおして、やっと理解した。
海の魔女との取引で、人魚は「人になりたい」ではなく「人の脚が欲しい」と願っていたのだ。人の脚を持つ人魚になったにすぎなかったのだ。
しかも、人魚の寿命は人とは比べられないほど長いらしい。
ナオは慌てた。いつまでたっても二十歳そこそこの若い姿のままの彼女と、人里では暮らせない。
やがて、美しい川のある静かな山あいの村の奥に人知れず居を用意すると、町を捨て、仕事を捨て、ひっそりと移り住んだ。
三十五の夏のことだった。
海に帰れない人魚も、海の匂いが届かない山の川になら拒絶されないことを、ナオは確かめて知っていた。カルキくさいプールが苦手な人魚にとっても、申し分のない環境だった。
しかし六十の夏、ナオは再びおや? と思いはじめた。
いつからか、ナオの老化はぴたりと止まったようなのだ。どう見ても、自分の姿は五十手前だ。
必死で考えた。四十代の頃、なにか変わったことがなかっただろうか?
そして、やっと思い出した。
それは、四十五の冬のことだった。
夕食の皿を差し出した人魚の左腕は、ぐるぐると包帯が巻かれていた。訊けば、夕食の準備をしていて手を切ったのだという。
ナオは心配したが、人魚は少し切っただけだと繰り返すばかりだった。
実際、一日後にはなんの傷も残さず綺麗に治っていた。
結局ナオは傷口さえ見ることがなかったのだが、本当に大した傷ではなかったのだろうと、すぐに忘れ去ってしまったのだった。
だが。
あのとき、人魚の血が料理に紛れ込んでしまったのではないか? 人魚の血を口にいれてしまったのではないか?
人魚の肉を食らえば不老不死が手に入るという。ならば、わずかの血にも老いを遅らせるなり、しばらくの間老化を止めるなりの力くらいあるかもしれない。
しかしそれは、ナオにとって問題にはならなかった。人生が少し延びたというだけだ。
人魚には何も告げなかった。そのうち不思議に思って訊いてくるだろう。その時にこの推測を話せばいいだけのことだ。
百歳の夏、まだ四十代半ばにしか見えないナオは、三度おや?と思い始めた。
どう考えても不自然な彼の体について、人魚はいつまでたっても何も訊いてこないのだ。
人魚は、ナオが年老いないことに疑問を抱いていない。
それはなぜなのか? そして、この体はいつになったら再び歳を取り始めるのか?
随分と考えて、ナオはやっと真実に辿り着いた。
五十五年前、四十を超えたナオが目に見えて年を取り衰え始めると、人魚は恐れたのだ。
ナオだけが見る間に年老い、そのうち死んでしまう。
ナオの傍に居るためだけに、尾ヒレを捨て、海を捨てた。なのにナオの寿命が尽きれば、一人陸地に取り残される。海に拒絶される彼女は、海の泡にさえなれない。
だが、一人取り残されることなくナオとずっと一緒にいられる方法を、人魚はひとつだけ知っていた。
* * *
「あの日、人魚は自分の腕から肉を削ぎとり、シチュー鍋に入れたんだよ。ナオは不老不死になってしまった」
「なるほど」
人魚が棲むという川からは、相変わらず若い女性と子供の楽しげな声が響いていた。
「それから二百余年、今もこの森のどこかに、彼らはひっそりと暮らしているのだという――」
「それでこんな山奥に人魚……」
俺は夢中でメモを取りながら、相槌を打った。
熱中症になりかけていた体が急激に回復し、熱っぽさもみるみる収まり、もう氷枕も必要なくなっていた。このぶんなら、森川にこれ以上迷惑かけずにすぐに山を下りられそうだ。
「なあ、君は色々な逸話を知っているんだろう?」
「ええ、まあ」
「そんな君だから訊いてみるんだが、二人の間にできた子は、やはり人魚と同じ寿命を持つのかな?」
うーん、と俺は考え込んだ。
日本で人魚といえば、人面魚のような怪魚や、物の怪の類だ。西洋では女の人魚は美しくその肉には不老不死の効能があるが、人魚自体は人と変わらない寿命だとされている。
人魚が不老不死、という話を聞くこと自体がはじめてだった。
しかし、人魚の肉に不老不死の効能があるのなら、人魚自身が長命でも何ら不思議はないように思えた。
生まれながらの不老不死ではなくても、自らの肉を一口かじれば、簡単に不老不死になれてしまうではないか。
「ヨーロッパあたりには、人間との間に子供をもうけたという話もありますが、足に鱗や水かきがあるとか、そういう姿かたちの話ばかりで寿命については……。でもまあ、母親である人魚が不老不死なら、ハーフとはいえど長命にはなりそうですね」
「なら、婿は普通の人間というわけにはいかんな」
森川がわが事のように腕を組んだ。俺は、あははと笑った。
「そうですね。ナオのように人魚の肉を食べさせないと――」
……うん?
何か漠然と引っかかりを覚えたときだった。
「ねえ――、一緒に泳ごう?」
水琴でも鳴らしたような透明な声が聞こえた。
水遊びをしていた女性が、森川に向かって左手を上げて大きく振っていた。彼女の横で、小さな少女が母を真似て手を振るのが可愛らしくて、俺は笑みを浮かべた。
「ねえったら――、ナオ?」
水琴の声が森川をさそう。
ナオ……?
見れば、森川は眩しいものを見るように目を細めて彼女を見詰めていた。
森川がナオ? じゃあ彼女が尾のない人魚か?
興奮して思わず腰を浮かせた。テーブルに置かれたままだった皿にうっかり触れたらしく、スプーンがカチャンと皿を鳴らした。
まるっきり人間じゃないか! 人魚だなんて信じられやしない。じゃあ、あの子供は人魚の娘か! 人魚とナオの。おそらくは長命の――うん? なんだ? さっきから何にひっかかっているんだ、俺は?
スプーンが陽光を反射して光った。
シチュー……?
突然、頭の中で全てが繋がり、喉の奥でヒッと声をあげた。ほとんど反射的に喉に手を当てると、ごくりと唾を飲み下す感触を直に感じた。
半狂乱になって喉に指を突っ込み吐き戻す。だが、もう手遅れなのだと確信があった。
熱中症になりかけていた体が短時間に異常なほど回復していた。のんきに昔話を聞いている間に、俺の胃は、シチューを消化しはじめていたのだ。
柔らかく煮込まれた肉は、これまでに食ったことがないほどうまかった。
当然だ。今日の今日まで俺は、人魚の肉なんて食ったことがなかったのだから――。
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