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EBMの対となるのは、本当に「NBM」なのだろうか?

 EBMの対となる概念としてNBMが説明されることがあります。車の両輪をモデルにして説明されることもあります。
 いずれにせよ、これらは主に総合診療分野において基本的な枠組みを提供するもので、広く一般的な「医療」においても同様です。2つは文字も似ているし、ゴロもいいので、特段これに対しての反論はこれまで耳にしたことがないように思います。しかし、冷静に考えると、本当にそうでしょうか。

 別に「語り」という人文的な要素に文句があるわけではありません。ただ、エビデンスの対として「ナラティブ」が挙げられることへの違和感です。
 データに対しての「コトバ」なので、ある意味、その通りなのですが、本質を考えるとデータという時は、医学・医療そして人体(身体)を評価する軸としての数値的なデータとなります。
 それは生体(ないしはその集団)にとっては、受動的に評価されたものであり、それゆえに「客観的」でもありうるわけです。これに対して、対となりうる概念は「主観的」なものとなります。
 主観的という時に、言語的な側面のみを対象とすれば「語り」となりますが、言語化できないような「感覚」「体感」なども含めれば、当然、改善を目的とするならば「治癒」「自発的治癒」「自然治癒」といった概念になるはずです。生体側の(多くの場合好ましい)中動態的な流れとも表現できるかもしれません。第三者的な介入によって客観的に評価したデータとは当然、対照的な概念となります。
 語りとしていわれるナラティブは、むしろこうした流れの一例として挙げることが出来るのではないでしょうか。

 人が語りの中で、治癒(もしくは望ましい方向)へと向かうことは当然ですが、それのみということはありません。あらゆる介入がそこには考えられるわけです。
 しかし、それを一般化すると、文学など文化的かつ高尚な?ものは良いのですが、代替医療など一部怪しいとされる概念を含めざるをえなくなります。それゆえに、安全な概念である「語り」までに、思考をとどめているように感じざるをえない、という側面もあります。
 つまり、ナラティブに限定すると、そこには人文的な(もしくは言語的な)アプローチに矮小化されてしまうわけです。
 これは、ケン・ウィルバーの言う「四象限」で考えると分かり易く、そこでの「I」と「 It」の違いということになります。一人称の「I(アイ)」は、言語的な評価に限定されず、生命の感覚的なものを幅広く含む概念ですから、望ましい方向である「治癒」へ向かうものが全て含まれるべきです。

 それではここまでの議論のまとめとして、エビデンスというデータに対となるのは、中動態的な治癒への方法、ないしは介入といえるのではないでしょうか。
 まわりくどい表現になりますが、分かり易く言えば、幅広い治癒への介入といえるでしょう。とするならば、これこそが統合医療が考慮している広義のCAMそのものともいえるでしょう。EBMとNBMという自明な対の概念であることに疑問を向けることで、現状の総合診療的な視点の、矮小さ、もしくは死角というものが明確になるのかもしれません。

 医療というものへの「まなざし」の差異から、私たちはこれまで自明であると思い込んでいた「死角」ないしは「盲点(スコトーマ)」というものに気づくことも少なくありません。少しそういったことも考えていこうと思います。これからのジャングルカフェでの選定図書などに反映していきたいと思います。


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