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日本語教育の参照枠の下で行動中心のアプローチでやっているとクラス授業はできない!?

 日本語教育の参照枠に基づく教育課程策定の議論では、たいてい、「一人ひとりの学習者によってニーズは異なる」だから「それに対応するためには一人ひとりの学習者のニーズを反映した(テーラーメイドの)教育課程を企画しなければならない」という議論の流れになってしまっている。
 これって、(1)クラス授業否定であり、(2)「教育課程開始に先立ってニーズがわかる」主義だし、(3)「日本語学習者は実用的に必要な言語活動ができる日本語だけやればいい」主義、だよね。先の発信や、この3点、皆さん、どう思う? 
 これ、端的に言って、クラス授業を否定して個別指導のほうに傾いていくと、日本語の先生ってお仕事になりませんよね。お仕事にするためには、「わたしは、20人の学生をまとめて指導することができる。各々の学生の個別性も反映させながら!」って言えないとプロじゃないと思う。
 それでは、「クラス授業否定」でない方向でいくとしたら、どんな理路をたどらなければならないでしょう? それをやってみます。

1.学習者のニーズと教育企画
 学習者のニーズは、本来、一つの教育課程の最終目標(ゴール)を設定するために活用されるべきものです。これ、教授設計(instructional design)の常識です。ニーズに基づく個々のCan doをだだだーっと並べてコースを策定するというのはどうも「変則的」です。
 特に、「他人言語」の教育である日本語教育の場合に、入門・基礎の段階から、実用的な言語活動をCan doとする行動中心のアプローチでCan doをだだだーっと並べるのは、大いに乱暴で、言語教育学的には粗暴な感じがします。ヨーロッパの人がお隣あるいはご近所の他のヨーロッパの言語を身につけようという場合は、100時間くらいの学習でおおむねCEFRのA1くらいに達するようです。そして、200時間でA2。(←各大学のカリキュラムがそのようになっている。) 「他人言語」である日本語の教育では、100時間でA1に達するでしょうか。そして、200時間でA2。まあ、ざっくり言って、2−3倍の時間がかかるのではないでしょうか。その上、ヨーロッパ人によるヨーロッパの言語の学習/教育の場合は、文化的歴史的に似ているor同根なので、A2までいくと、それこそ複言語・複文化的な基盤があるので、書記言語の方面も含んで、部分的知識ながら、いろいろなことが、例えばスマホのアシストがあれば、できます。日本語の場合は、なかなかそんなわけにはいきません。
 そもそも行動中心のアプローチというのは、基礎段階であるA以降のカリキュラムフレームとして適当なものとして提案されているということが日本では見落とされています。ヨーロッパのコンテクストでもともと複言語・複文化な人たちの場合は、A1レベル以降くらいでも行動中心のアプローチを適用することができますが、日本語のような「他人言語」の場合は、Aレベルの基礎力がないと、実質のある実用的な言語活動はとてもできないでしょう。
 そもそもAレベルというのはBasic userに達するまでのレベルで、そこまでは「実質のある実用的なことは何もできません」というレベルです。簡単に言うと、「その言語の基礎力をしっかり身につけてね」というレベルです。「他人言語」である日本語の習得として、いかに基礎力を養成するかこそ検討しなければならないでしょう。ただし、従来の言語事項中心の初級日本語教育にもどりましょうと提案しているのではありません。言語事項中心の教育でもない、行動中心のアプローチでもない、第3の方法を見つけなければなりません。

*行動中心のアプローチのサイズについて
 教育指導の単位のサイズを仮に、課>ユニット>モジュールというふうに考えて、学習者の日本語上達段階に応じて、適切なサイズでCan doの形で下位目標設定するのは悪くない教育企画方略だと思います。
*そもそもの行動中心のアプローチについて
 1960年代にカリキュラム開発をめぐる議論と研究が北米で盛んに行われました。その時に提唱されていたのが、実は、「〇〇ができるの形で教育目標を設定する行動目標です。ぼく自身は、そういう方面が専門(の一つ)なので、Can doと耳にすると、この行動目標を思い出します。しかし、この行動目標は英語ではbehavioral objectiveです。その意味は、教科のその単元の知識等が身についていることが見える行動(behavior)として「〇〇ができる」ということです。実用的な言語活動(action)を標榜する行動中心のアプローチとは似ているようで異なります。上で論じたような事情で、入門・基礎の段階で行動中心のアプローチのCan doに基づいて教育課程を設定するのは適当ではないと思いますが、behavioral objectiveのCan doを設定するのは、教育設計上申し分なく妥当です。あとは、behavioral objectiveを採用するとして、日本語の着実な上達経路をどのように構想するかです!
*「兄弟言語」「他人言語」 https://t.co/SEKMpwgBqTを参照してください。

2.「教育課程開始に先立ってニーズがわかる」主義について
 先に論じたように、ニーズというのは教育課程の最終目標(ゴール)を設定するときに活用されるべきものです。例えば、B1段階の1つのコースとして、「生活上の重要な場面で自身の状況をしっかりと説明したり、希望や考えを主張したりすることができる。また、交渉することができる」というゴール設定をしたコースを設ける、というふうに活用するべきです。そして、その場合には、現在、「生活Can do」でB1段階としてあげられているさまざまなCan doがそのコースの下位目標となります。現在ある個々のCan doを束ねて少し一般化するという「ひと手間」が必要ですが。
 そうした、一定程度一般化されたコースをレディメイドでいろいろ用意するのが専門職としての教育者の仕事だと思います。そして、クラス授業で教育指導を実施! そして、個々の学習者の「要望」はフレキシブルな教育指導の中で対応する。
 
3.「日本語学習者は実用的に必要な言語活動ができる日本語だけやればいい」主義について
 この点が、日本語教育の参照枠下での行動中心のアプローチが内包する大きな課題であると思います。多文化共生と謳いながら実用的に必要な言語活動ばかりに傾注するというのは大いに矛盾です。実用的に必要な言語活動ばかりに注目するのは「必要なことは自分でできるようになってね」という意味合いになり、そのスタンスはさまざまな問題を内包しています。
 多文化共生と言うのであれば、さまざまな日本語話者と関わり交わって、人生を分かち合いながら日々を暮らすために必要な日本語力にもっと関心と注意を向けるべきでしょう。それは、実用的な言語活動ではなく、交友という言語活動に従事するための日本語力です。その部分に注目してこそ多文化共生のための日本語教育でしょう。
 そして、Basicである入門・基礎段階の日本語教育は、学習者の種類に関わりなくその部分、つまり交友のための日本語を扱いつつ、基礎日本語力を養成するという方略を採るのが有効であるとぼくは考えています。

 日本語教育の参照枠や行動中心のアプローチは、日本語教育に関するさまざまな施策をそれ以降に企画・立案するための「方便」だったのだという冷めた!?見方もあります。付言しておきます。

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