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「太平洋戦争を『言葉』で戦った男たち」(映像の世紀バタフライエフェクト)を見て

 「太平洋戦争を『言葉』で戦った男たち」を見ました。皆さんも2022年7月18日(月)午後10:44までにぜひNHKプラスでご覧ください。
 このバタフライエフェクトは大好きで、これまで、キューバ危機におけるケネディの決断、ヒトラーとチャップリン、RBGなど興味深いものばかりでした。今回の「太平洋戦争を…」の概要は以下の通りです。

 太平洋戦争の勝敗に大きな影響を及ぼしたのが、米軍が急いで養成した日本語情報士官だった。暗号読解や捕虜の尋問に当たった彼らは、戦後の日本復興にも大きな役割を果たす。戦時下のテニアン島で日本人のための小学校を作ったテルファー・ムック、昭和天皇の戦後巡幸を進言したオーテス・ケーリ、川端康成のノーベル文学賞受賞に貢献したサイデンステッカー、言葉によって日本と戦い、そして日本との懸け橋となった男たちの物語。

番組案内サイトから引用。ドナルド・キーンのみ筆者追加。

 ドキュメンタリーにはドナルド・キーンも登場しますが、あまり大きくは取り上げられていません。この4人を含めて、コロラド大学ボルダー校に設置された海軍日本語学校を修了してその後に日本語情報士官として活躍した人たちはボルダー・ボーイズを呼ばれたそうです。

 父親が宣教師だったケーリは、14歳まで小樽で過ごします。日米開戦当時50人程度だった日本語ができるアメリカ人の一人でした。(もちろん、これには当時の日系アメリカ人は含まれていません。) ドキュメンタリーでは、終戦後間もなくケーリは高松宮(裕仁天皇の弟)に会い、天皇が日本全国を巡って日本国民を励ますことを「提案した」と紹介されます。その翌年の1946年2月から天皇の全国巡幸が始まります。天皇の巡幸はGHQの占領政策に沿うものですが、ドキュメンタリーでは、「空虚になっていた日本人を励ますのが望ましいのではないか」と高松宮に「進言した」と紹介されています。ケーリはその後、同志社大学の教授となり、同大学のアマースト館(学生寮)の寮長として約半世紀を過ごします。
 サイデンステッカーはたくさんの日本の文学作品を英訳したことで知られています。その中に川端の『雪国』や『伊豆の踊子』があります。戦後佐世保に進駐することとなったサイデンステッカーは、復興のためにせっせと働く日本人の姿を見て「この人々はやがて必ず世界に越し手恥ずかしくない国民となるだろう」と考えて、その日本人たちが生み出した文学や文化の研究を志したと言う。5年後GHQの職を辞したサイデンステッカーは東京大学に入学して日本文学の研究を始めます。自身は、江戸風情の残る小石川で暮らしていました。川端は「自分の作品は英訳で審査されたので、その英訳がひじょうにすばらしかったはずだ。だから、ノーベル賞の半分はサイデンステッカー教授のものだ」といい、実際に賞金の半分を渡したと言う。そして、川端は、サイデンステッカーに授賞式への同行を依頼して、サイデンステッカーは同行している。ノーベル賞の記念講演は、川端が日本語で書いて、それをサイデンステッカーが英訳してサイデンステッカー自身が読み上げています。
 中でも、最も印象深いのは、ムックです。1944年7月の米軍によるサイパンとテニアン制圧後にテニアンにいた日本語情報士官のムックは「有志鉄製の中の一般市民も何かすることが必要だ。普通の生活に戻るための何かが必要だ」と考えて、子どもたちのための学校の設置を提案します。うら若き情報仕官に過ぎないムックはそんなことを決める立場にはなかっただろうと思います。しかし、ムックはきっと上官に向かって学校設立のことを熱っぽく提案したのだと思います。そこには、ムックの人一般に対する強い愛情がわたしには感じられました。ムックが名門エール大学のロースクールを出て、弁護士資格をすでにもっていて、人権や平等の理念をしっかりと持っていたという部分もあるかと想像されます。ドキュメンタリーの中でもムックは笑顔を絶やさないあたたかい人物でした。ムックのそんな提案を上官も「人に対する愛情」もあって認めたのだろうと思います。(ただし、子ども2000人を含む9500人の日本人捕虜を一定程度の環境で養うことができ、学校まで作ることができた、アメリカの物量面での「余裕」を見逃すことはできません。真珠湾奇襲で大打撃を受けたとされるアメリカ太平洋艦隊ですが、空母エンタープライズとレキシントンは真珠湾外で別途の任務についていて無傷で残っています。また、アメリカは他にもサラトガ、ホーネット、ヨークタウンなど5隻の空母を保有していました。そして、その国力は、日本は言うまでもなくヨーロッパの列強の追随を許さないほどのものでした。)
 ムックが始めたテニアンスクールの校長になったのは、島の国民学校の教員だった池田信治です。ドキュメンタリーは詳しく語られていませんが、ムックが池田に要請したのは、(1)男女共学(男女平等)、(2)民主教育、(3)平和を願う心、のようです。池田は、男女共学に反対したそうですが、学校は男女共学となります。そして、そこでそれまで男子より「低く」見られていた女子が才能を発揮します。その一人が、上間繁子です。砂糖生産の拠点だったテニアンの住民の大部分は沖縄出身者でした。かれらは、戦後故郷である沖縄に帰ります。池田も上間も。ムックと池田から民主教育を受けた上間は、沖縄に帰って小学校の先生となり、生涯教職を続けます。
 そして、なんと1991年には、テニアンスクール同窓会が沖縄で開催され、そこにムックが招待されて、池田や上間や他の元先生や元生徒たちと感動の再会を果たします。満面の歓びを浮かべて「池田先生!」と呼んで歩み寄るムック。そして、しっかりと抱き合うムックと池田先生。大柄のムックの胸で泣きながら何度も「うれしいです。ありがとうございます」と繰り返す池田先生。テニアンスクールが運営されたのはわずか数年だろうと思います。しかし、ムックと池田は、テニアンスクールを、未来のある子どもたちのためにいっしょに設立し運営した「同志」としての信頼と強い絆で結ばれているのでしょう。
 以下、ムックの感覚をよく表している2つの言葉を引用します。

 人と人が直接に知り合っていれば、憎しみは生まれません。お互いの人間的な関係がないときに、人は3万フィートの上空から平気で人々の上に爆弾を落とせてしまうのです。それがまさに戦争の悲劇なのです。

ムックの言葉、ドキュメンタリーより

 世界の状況は猛烈な勢いで変化し続け、私たちの日々の決断は、自分たちの将来だけでなく、その国や世界の未来にも影響を与えます。戦争中であっても、普段の暮らしの中にあっても、私たちはあらゆる機会を通じて関わり合うべきです。ともに歩み寄り、積極的に働きかけ、そして、それぞれの幸せや平和をめざすべきなのです。

ムックの言葉、ドキュメンタリーより

 ウクライナの情勢は先の見えないものとなり、まだ打開の糸口は見出せていません。北朝鮮の核ミサイル開発も何とも止めるすべがありません。
 戦争と平和に関して、わたしが思うのは、わたしたち一人ひとりは「ふつーの生活者」として民衆であり、それと同時に、会社や何らかの団体等のメンバーであり、そしていきなり大きくなりますが、否応なく!「国」のメンバーです。人の集団というのは、インフォーマルな趣味の集団を除いて、端的にその集団の利益・利害を守るためです。そして、集団の利益や利害は、しばしば相容れず、摩擦や対立が起こります。それが増大していくと、「ふつーの生活者」の民衆が誰も望まない結果を引き起こすことがあります。また、集団の利害と「ふつーの生活者」の民衆である「わたし」の「利害」がしばしば結びついているという事実も大いに厄介なことです。しかし、とにかく、何とか「フツーの生活者」である民衆の部分を大事にして、そんな民衆の声が集団のメンバーとしての声よりも大きくなるように、フツーの人とフツーの人が集団や制度を超えてつながり、そんなつながりを広め深め続けることを積極的にしていくしかないのかなあと思います。

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