優れた教師? 優れた授業?
Twitterの足し算。
いろんな「えらい先生」と教師養成・成長などについて話していて違和感を感じる。ぼく以外の先生たちはどうも、優れた授業や優れた教師というのが一般的にあり得ると考えている。ぼくはそういうふうに考えていない。もちろん、どんな「授業コマ」を発注されても相対的にいい授業をすることはできるが。
優れた教師とは、関わっている教育のカリキュラムを適切に理解・解釈でき、そのカリキュラムとの関係で教材を適切に解釈・位置づけができ、カリキュラムの中の各ユニットの目標・ねらいを適切に理解・解釈でき、ユニットの中の自身の授業の位置やねらいを適切に理解・解釈できる教師。
その上で、自身の授業を適切にプランし、有効に実施できる教師。それが優れた教師であり、優れた授業です。そして、そんな優れた教師や優れた授業が「成り立つ」ためには、優れた教育企画、優れた教材・リソース等が必要です。そして、教育企画や教材・リソースなどを理解する高度な資質・素養が必要。
その教育企画や教材・リソースなどを理解する高度な資質・能力こそが、優れた教師として必須の素養です。 さらに言うと、優れた教師は「良質の生真面目さに基づく授業」の上に、日本語上達に資する要素を豊かに加味できる教師です。
一般的に優れた授業などない! 優れた教育企画や教材・リソースなくして、優れた教師など存在し得ない、という話でした。大部分の「えらい先生たち」が、教育企画の重要性や教育実践を支える教材・リソースの重要性を正当に認識していないことが、日本語教育を「沈滞」させている大きな理由。
上の優れた教師・優れた授業の議論は結局、日本語教育には教育企画がないor教育企画が教科書に後付けになっていることを暴露している。つまり、「どんな授業をするのか」という議論が「教科書」に従属してしまっている。やはり、教育企画が必要、そして教育企画を理解・共有できる「高度な」教師が必要。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?