見出し画像

【創作】掌編 栃ノ奥嶺(とちのおくみね)から/都会を捨て山に入った男のモノローグ

夏の章

 ところでここは清流の音が心地よく、我ながらテラスを作ったのは正解であったと(まるでパパ・ヘミングウェイのように)フローズン・ダイキリの大きなグラスを傾けながら、ひとり自負しているところです。実際、フローズン・ダイキリには大きなグラスがよく似合います。ミキサーがないのでクラッシュアイスにラム酒をぶっかけるという、ほとんど<もどき>のようなものだけれど、別に誰かに提供するものでなし、グレープフルーツジュースにほんの少しシロップを加えてかき混ぜると、これはこれで爽快な飲み物です(そのためだけにクーラーボックスを背負って村まで往復する苦労をご想像ください)。

 

 この日記のような文章が誰かに読まれることがあるかどうか、僕にはわかりません。けれど、ここにいて売るつもりもない絵を描いているだけの生活は、生きている意味のようなものを見失わせます。
 だったら戻ってくればいいと、君はそう言うでしょうね。そう、あてもなく書き連ねるだけのものは、絵と何ら変わりがありません。そこで<君>に宛てて、この文章を綴ることにしました。<君>ーーもちろんそれが誰であっても構いません、僕が生きているうちは、誰の目にも触れないかもしれないのですから。
 それにしても、僕がこんな隠遁者のような生活に入るなど、誰が想像し得たでしょう。あの頃の僕を知っている人には、そんな生活はおまえには似合わない、そう言われそうな気がします。実際あの頃の僕は、生きるために働いているのか、働くために生きているのかわからない状態でした。
 でも都会のオフィスで海外のデザイナーたちとやりとりするのは、僕には実に爽快だったのです。それは嘘ではありません。そこには緊張感もあり、いい意味でのスリルもあった。それが誰かに取って代わられる日が来ようなど、僕には想像すらできなかった。僕が絶対だったなどと言うつもりはありません。けれど、海外のデザイナーたちとのあいだには間違いなく信頼関係はあったと、僕はずっとおもっていたのです。それを勘違いだったと言われればそうかもしれない。もちろん、何ヵ月に一度かは海を渡って、彼らに会いにも行った。ディスプレイ越しだけの関係ではなかったはずです。それなのにーー
 
 

 いや、もうよしましょう。気が滅入ることを書いていると、本当に、どうにかなってしまいそうです。そんなしがらみから逃れたくて、僕はここへやってきたはずでした。

 

 そんなことより、ここで僕がどんな暮らしをしているのか、<君>には伝えておきたいのです。僕に今の生活ができている、それ自体が、僕にとっては奇跡かもしれないのです。
 隠遁生活とはいえ、誰より都会の便利でにぎやかな暮らしを謳歌してきた僕です。一から十まですべて自給自足というわけにはいきません。幸い、三、四時間も歩けば村へ続く町道に出るので、米や肉など最小限のものは仕入れることができます。ただ、尾根道からは外れているので、冬には気をつけないと遭難する恐れは十分あります。ここは、登山家だった叔父が自分が隠棲するためだけに建てた、ごく小さな山小屋なのです。

 

 実際、叔父は僕なんかと違い、自然そのままの人でした。名を残すような登山歴はない代わり、ソロキャンプの走りのようなこともやりながら、できる限り社会と隔絶した生き方を貫こうとした人でした。この叔父がいなければ、社内で居場所がなくなったとはいえ、百八十度変えてしまった今の生活に入るなど、僕自身考えもつかなかったでしょう。山歩きも僕はこの叔父に教えてもらったのです。

 

 自分で飯を炊き、畑を耕し、清流に釣り糸を垂れてアマゴなどを食卓に乗せる。山菜のことも随分覚えました。山には似て非なるものがたくさんあり、間違えるとそのまま命に関わることにもなりかねません。
 この辺りは熊も出るそうですが、幸いまだ遭遇したことはありません。自然の只中に後から入り込んできたのは自分なのだから、熊に狙われることがあったとしても仕方のないことでしょう。覚悟、というのとは違います。達観、と言った方が近いでしょうか。諦念、とも違う気がします。
 でも考えてみれば、都会にいたときと何が変わったというのでしょうか? たったひとつの間違いが命取りになることも、思わぬ出来事に出会うことも、何ひとつ変わらない気がするのです。では僕はいったい、何から逃げてきたのでしょう・・・?

 

 それを知るため、というわけではありませんが、夜には宗教書や哲学書を読み漁ります。いや、読み漁る、という言い方は正しくありません。以前のようにガツガツと、何かを吸収しようという気持ちはなくなりました。変わったといえばそれかもしれない。
 生きていくために知りたいことは、生い茂る木々や、鳥や動物たちや、川の清しさ、風の音、何日も降り続く雨や雷鳴などが教えてくれます。僕は何も言わず、ただじっと、ひたすらそれらに耳を傾けているだけでいいのです。余計なことをすると、てきめんに返ってきます。
 では本は何の役に立つのか、<君>はそう訝しがるでしょうね。
 雨の日には絵筆を取り、天気の良い日にもイーゼルなどを抱えて尾根に登ります。足を滑らせたらそれっきり、というところも何箇所もあります。命懸けです。全く、哲学書など風呂の焚き付けにでもしてしまいたいくらいです・・・けれど、得たものを発酵させ熟成させるには、酵母菌が欠かせないのです。そう、宗教書や哲学書は、僕にとっては酵母菌です。僕が身をもって感じ、この自然から得たものは、僕にしかわかりません。ここには僕しかいないので、その必要がないといえばそうですが、伝えたい、という欲求は決して消えることがないようです。そのために絵を描き、文章を綴って、ときにはカメラを構えてみたりもする。そうした欲求は何かの下支えがないと、続けてゆくことができないのです。宗教や哲学は、伝えたいという欲求を支えるためにあるのかもしれない、そう考えて本のページを繰っているのです。生きることの意味、と言ってもいいかもしれません。


 ・・・と、わかったようなことを言ってしまったけれど、本当は、夏の夜は寝苦しくて本でも開いていないとやり過ごすことができません。夏の初め、あたりに細長くツンと伸びたクサフジの花が見られるようになると、なぜこんなことをしているのかと、自分を呪いたくなります。冬は冬で、雪に閉じ込められる心細さはとうてい言葉で言い表すことはできません。
 それでも。
 ムッとする草いきれの中を、笹などに細かな傷をつけられながら沢へ降りていって飲む水の味は、生きている実感を実に鮮やかに浮かび上がらせてくれます(でもフローズン・ダイキリの味はそれ以上ですが)。
 たとえたくさんのヤブ蚊やブヨに襲来されようと、それが何だというのでしょう? 都会との一番の違いはこの、壮大な自然にくっきりと切り取られた自分の魂がコラージュされるような、その感覚が味わえるかどうかだと、今ははっきりと言うことができるのです・・・

 

 この夏はしかし、山は下界よりもさらに涼しく、過ごしやすいと言うよりは不安な毎日です。自然が微妙な細やかさで針の先ほどの均衡を保っていた頃と比べると、最近は何か悪意のようなものさえ感じないではいられません。
 それでも、草々の営みはそれなりに規則正しく、この小さな山小屋の周りでも、アキノキリンソウの黄色い花や、ミズヒキの可憐な細い茎の流れがポツポツと目につくようになってきました。我ながらよく夏を越えたとおもいます。嶺の向こうにわずかに頭をのぞかせている※※山が色づき始めるのももう間もなくのことでしょう。
 今回は触れませんでしたが、このあたりには古い民話が数多く残っていると聞きました。次の便りでは、そんな民話の幾つかをご紹介できるかもしれませんね。ではくれぐれもお身体をお労りください。

 <君>にいつも幸せがあふれていますように。



昨年noteに上げた文章を整理していたところ、この小さな小説めいたものが残っていました。今回小説は書かないつもりでいたけれど、このままお蔵入りにするには忍びなく、アップすることにしました。もしよろしければ感想などいただけると幸いです。



画像は ~Kanenori~による~Pixabay~ から

この記事が参加している募集

私の作品紹介

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?