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コーディネート【で】語るか、コーディネート【を】語るかは全然違うって話
ども、イシちゃんです。
先日Xでトレンドに上がっていた「カジュアルおばさん」というワードが気になったんで、元ネタを見てきました。
う~ん…言いたい事は分かるけど、ちょっと誤解されちゃったんだろうなぁ…?
ってのが僕の率直な感想です。
「似合う」の基準は変化している
と思うんですね。ファッション誌なんて今じゃいくらでもあるし、ファッションジャンルだっていくらでもある。
で、それぞれのジャンル、雑誌で「トレンド」も「コーディネート」も違うわけです。
それくらい、今って「みんな違う」時代なわけです。「みんな違う」から「似合う」の基準もよりパーソナライズされたものになっていくと思うし、そうなりつつあると思います。
パーソナルコーディネーターも今はかなり増えましたし、美容師は元々パーソナライズされたヘアデザインを提供するのが仕事ですしね。
今年は「不適切にもほどがある」ってドラマもありましたけど、画一的な「トレンド」で「コーディネート」が成立していたのってせいぜいあの時代位までだと思うんですね。
DCファッション、ワンレンボディコンとか、聖子ちゃんカットとか、まぁ、いろいろありましたけど、そういう時代って「みんな同じ」だったわけですよ。
そういう時代だからこそ、「トレンド」も成立していたし、「みんな同じ」でもイケてたんですね。
でも、今はそうじゃない…むしろ、今の時代を生きる僕達が「トレンド」一色のコーディネートに溢れた当時の街を見たら、ちょっと異質な光景に感じると思うんです。
そもそも、「カジュアル」って言葉の意味が分れば、「若作り」ってワードは出てこない
と思います。
カジュアル:格式ばらず、くつろいでいるさま。気軽な服装
(格式ばる:礼儀、作法、形式を重んじて堅苦しく振舞う)
casual:思いつきの、何気ない、さりげない、無頓着な、くだけた、気まぐれな、普段着の、略式の
つまり、【形式にこだわらない】のがカジュアルですし、【気軽さ】がカジュアルの良さなんですよね。
それを、「若作り」だとか、云々かんぬん言ってしまったら「気軽」じゃなくなるし、「形式ばった」ものになってしまいます。
これじゃ、ファッションの記事を書いているのに、「ファッションの言葉の意味を理解していません」って言ってるようにすら思えてしまう。
それこそ、言葉に「無頓着な(=casual)」んじゃないかなぁと思うんです。
ただ、今の時代かなり多くの人が気づいていることだと思いますが、ファッション系の多くの記事は「ブランドを売るカタログ」なんですよね。ドラマのセリフなんかでもそういう描写で描かれたりもします。
件の元ネタのブログ記事にしてもそうですね。コーディネートを紹介して、画像と合わせて、ブランド名と金額を記載しています。
まぁ、そういう立場に立って見れば、「若作り」「イタい」「カジュアルおばさん」って尖った表現でグサグサ刺しまくった後で、「だから、こうすれば良いんですよ」と手を差し延べれば、刺されて弱った人には効果的ですし、「カタログ商法」としては正解なのかもしれません。
というよりも、強いて言うなら、あれを「イタい」とブッた斬るのであれば、同じアイテムを使って、それをどうすればより洗練されるのか、どうすれば現代チックにアレンジできるのか、そういうことの方がより今の時代性にも合っていると思います。
「元のアイテムはどこいった?」と、元々のアイテムを「無かった」ことにしてコーディネートを紹介したことで、あのような騒ぎになったんじゃないかなぁと…
この辺りの葛藤は、記事の作り手さんたちにもあると思います。その葛藤もドラマや映画なんかでも描写されていたりもします。だからこそ、言葉に対する嗅覚みたいなものは僕たち以上のモノであって欲しいと願うんですよね。
20世紀の哲学者にウィトゲンシュタイン
って人がいたんですけど、彼は言語ってものがいかに重要で、世界は言葉が無ければ理解されないし、理解できないってことを言ってたんですね。
ファッションも彼の言う「世界」の中に当然含まれるわけです。キュートとか、エレガントとか、カジュアルとかそういうものって全て「言葉」で表現されるから理解されるし、理解できるわけです。
服のデザインとか、色とか、コーディネートとか、そういうものって抽象的、概念的ではあるけれど、それを伝える時には「言葉」が使われるわけです。
そもそも、ファッションって「表現手段」なわけですよ。【表現したいこと】があるからそれに適したモノを「選ぶ」んですよね。
信頼されたいとか、
誠実でありたいとか、
可愛くありたいとか、
言ってみれば、
ファッションって想いや言葉の増幅装置
なんです。
画像の女性からは、肩ひじ張らない気軽でくだけた時間を過ごしたいって思いが十分に伝わりましたし、それこそ「カジュアルらしさ」を全身で表現していたように思います。
むしろ、これは僕の勝手な印象なので、思いっきり偏見のある感想ですが、
・男の子のお子さんが2、3人いそう
・それも、もの凄くワンパクな男の子たち
・息子のエネルギーに負けないパワフルさを全身で表現してる
・子供にとことん付き合い、真正面から向き合う良いお母さん
と感じました。
それを、「イタい」とか「若作り」とか言ってしまうのは、カジュアルの本来的な意味まで否定しているようですし、だからこそ"トレンド"ワードになるほどの炎上騒ぎになったんだと思います。
ファッションはもっと自由で良いし、もっと楽しいものだと思う
「何を着るか」が大事な場面もあれば、「何を着ても良い」気楽な場面だってある。そういうメリハリがあるから、ファッションは『楽しい』んだと思います。
むしろ、「何を着ても良い」気楽な関係性の人がいることって凄く幸せなことだと思うんです。常に「何を着るか」を考えなきゃいけない相手としか過ごせないって疲れちゃいますから。
「自由」って、そういうものだと思うんです。「いつ」「どこで」「誰と」過ごすのかに応じて適切に選ぶこと、選べる力があるから「自由」なんだと思います。
何より、本当にお洒落な人って、そういう使い分けが上手だし、使い方も上手なんですよね。だから、そのギャップに人が魅せられる。
流行が去った古いデザインのモノでも古さを感じさせない工夫をするし、モノを大切にするからモノ持ちが良いんですよね。
そういうモノを大切にする人間性が滲み出るから、自分のこともきっと大切にしてくれるだろうという信頼も生まれ、魅力が強化されて惹き込まれるんじゃないかなぁと…
むしろ、流行が変わるたびに、新しいモノばかりそろえて、流行が去ったモノはどんどん捨てていく方がよっぽど今の時代に合っていないと思います。
「背中で語る」
って言葉がありますが、記事に掲載されるコーディネートをただ装う人より、不器用でもファッション【で】語れる人の方がよほど魅力的だし、僕はそういう人が語る言葉や想いをヘアデザインやコーディネートでカタチにすることの方がどんなオーダーよりもやる気が湧きます。
大事なのは、
そのコーディネートで【誰と】過ごし、【何を】表現したいのか
です。
お洒落を語らう友人と過ごすのであれば、ある程度洗練された装いは必要でしょうし、気楽な相手と気軽に過ごすのであればむしろ洗練さはそこまで重要ではありません。
オフィスカジュアルも出てきましたが、オフィスカジュアルな場面で件の記事のような装いでは「イタい」と言われるのは当然です。
オフィスカジュアルはカジュアルとは言うモノの、それはあくまでも「オフィシャルな場面における」って前提があるからです。
つまり、
「前提」が大事だというわけです。
前提によって、「イタい」とか「若作り」といった印象を持つ人がでるからです。
「前提」というのは、「いつ、誰と、どこで、どんな状況か」ということです。その「前提」が無い状態でツラツラと「コーディネート【を】語る」と意図しない炎上を招くことに繋がると思います。
「~【を】語る」と「~【で】語る」には、たった1文字ですが、それくらい大きな違いがあると思うんです。
そういう【文脈の重要性】をウィトゲンシュタインも語っていたわけですが、ファッションもコーディネートも同じなんです。デザインが持ってる言語があって、その言語の意味を咀嚼して、自分の「なりたい」とシンクロさせて表現する。
そうすることで、「ファッション【で】語る」人になれるんですね。
「似合う」は1人につきいくらでもあるものだけど、「なりたい自分」は世界でたった1つ1人きりのものだからです。
その人の視点、その人の感情はその人だからこそ持ち得るものですから。
僕も、ヘアデザインとコーディネートを仕事にしていますが、そういう「世界で1つだけのなりたい」の力になれるんですから、そりゃあやり甲斐しかないわけですよ。
毎日が「世界で1つだけの創作」に携われるわけですからね。
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