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研究日記2024年4月の報告書

この4月のこと

この1ヶ月は自分でも驚くほどに何もなかった。仕事が決まったりはしたし、研究員の仕事は(多少は)していたけれど、とにかく暇だけがあった。3月末から4月初旬にかけていくつかの重要なメール(その中には設計事務所で働いてみたいという相談のメールもあったし、頼まれていたことへの返答もあった)を送ったけれど、多くの人の4月の忙しさのせいか、メールの内容が悪いのか、ほとんど返信は返って来なかった。エアポケットに入りこんだように、ほとんど誰とも会わず、何も起きなかった。

本だけはとにかくたくさん読んだ。大して働いてないのに本だけは買ってしまうから、破産の足音がとことこと聞こえてくるような気がした。主にトイレと日本思想史と窓のことについて勉強した。映画は数本みたけど、展覧会は一つもみなかった。いくつか研究のアイディアをまとめ、デザインコンセプトと企画を自発的にまとめるなどした。

以下は今月読んだ本のタイトル。

『大規模言語モデルは新たな知能か』
『建築雑誌「建築画像」特集』
『アイデア「大曲都市」特集』
『デザインノート「文字を極める」特集』
『香と日本人』
『木を植えた男』
『「木を植えた男」を読む』
『a+u「食と建築」特集』
『国宝伴大納言絵巻』
『Design Science_01』
『Just Enough Design』
『ユニバーサルトイレ』
『「今を映す」トイレ』
『ディテール「トイレ」特集』
『ウンコの教室』
『13億人のトイレ』
『江戸の糞尿学』
『江戸厠百姿』
『快適なトイレ』
『近代感染症の生活史』
『ストーリーで読む設備』
『江戸かわや図絵』
『お茶の本』
『君たちはどう生きるか』パンフレット
『君たちはどう生きるか』ガイドブック
『PERFECT DAYS』ガイドブック
『内藤廣と若者たち』
『ディズニーはまず「おそうじ」を考えた』
『キーエンス解剖』
『ひとり空間の都市論』(再読)
『深澤直人のアトリエ』
『ユニクロ』
『窓から建築を考える』
『窓と建築の格言学』(再読)
『日本の香り』
『Naoto Fukasawa : Embodiment』
『TOKYO STYLE』
『RITA Magazine』
『Jun Aoki Complete works vol.2』(再読)
『窓へ〜社会と文化をうつしだすもの』
『キュイジーヌ:フランスの台所近代史』
『窓のある家』(千葉学)

研究のこと

参加しているモビリティゼロのプロジェクトでLLMを用いて共同研究しているものがあった。わりかし客観的に結果のでるシミュレーションのような研究を少しやったのだが、博士を取ったあとでこんなことをいうのも何なのだけど、初めてくらいに研究を面白いと思った。論文を書いて人と共有したくなるような気持ちも初めて味わった。そういうことってあるんだと思った。

どちらかといえば創作のほうがずっと楽しかったし、修士や博士にかけてやらねばならぬからやっていたけど、研究はなんだかやらなきゃいけないからやるものだという意識があった。その中でも僕は質的なものをメインに取り組んできたから、研究において自分の目線や視点が重要になることが多かった。博士で取り組んだ「待像論(歴史におけるVR的なもの)はとても楽しんで取り組んだし、研究としてやったからこそ深くまでいけたとも思うのだが、主観的認識を質的に取り扱う研究だったので、どこか自分というものが頼りのようなところがあって、それが客観的な結果を眺めるような、現象の観察の面白さから僕を遠ざけていたのだった。

ところがLLМを用いたシミュレーションの研究では、条件だけ設定して動かすと興味深い客観的な結果が出てくる。単純なことなのだが、それが面白い。そこには言語と状況という人間が質的に捉えなければならない要素が生まれているのに、それ自体はデータ的に生まれてくるし、設定によっては再現性のある形で生成されるという不可思議さがある。その確かさと不確かさのバランスを行き来することがとても楽しく、共同研究のものに加え(それはそれで実施したのだが)、自分なりにもLLМを用いた研究計画を立てて、実装の具体的な構成までかなりの量の論文を読み解きながら書き上げてしまった。来月はこれを具体的に実装し動かしたいと思う。

時間の身体性の喪失について

今月に読んだ大量の本の一冊として、都築響一さんの『TOKYO STYLE』という本を読んだ。これはほとんど写真集で、かつての東京に暮らす人々の部屋を撮り続けたものである。あとがきに「これは日本的なるものを撮った」みたいなことが書いてあって驚いた。桂や伊勢のように外国からの目線により励起され日本でも賛美されるようになった古さと共にある「日本的なるもの」でなく、現前する生々しい生活そのもののリアリティの中に「日本的なるもの」を見出そうとするのは、タウトに反抗した坂口安吾にも通ずるものがある気もしたけれど、都築さんのそれはもっと軽くて、ほとんど軽薄な人々の記録にも思えた。つまりそこに写された部屋の多くは思想もこだわりも展望もない普通の人たちの無気力な暮らしの集積に思えたし、あるいはそれが日本的なのかもしれないとすら思った。

https://nostos.jp/archives/214487より引用。僕が読んだのはちくま文庫版。

とはいえ、その部屋のあまりの汚さにはとても興味を持った。棚に並べればいいのに至るところにゴミや小物が置かれていてテーブルには小銭が転がっていた。床には本やカセットやビデオテープなんかがうずだかく積まれていて、整頓されていても足場はなかった。とにかく異様にモノが多かった。

そういう人は現代でもかなりの数いるのだろうが、現代の中では、とにかく様々なものが非物質化していることを改めて浮かび上がらせるような本だとも思った。動画、写真、レコード、カセット、メモ、原稿、本、小銭。昔は全部が物質的だから、部屋がそれらで埋め尽くされる。今やその殆どはスマートフォンやパソコンのストレージの中に収まっていって部屋からそれらの物質性は失われている。今や前のスクショや写真やビデオを見返すことはほとんどない。過去の時間が非物質化して、簡単に霧散してゆくような感じがする。人間は結局のところ身体的にしかモノを考えられないのではないかと思う。非物質的な情報は溢れているのに、人間の暮らす空間のなかにそれらへのアクセスのための窓は少ない。せいぜいスマホとタブレットとパソコンのディスプレイをスイッチングして行き来するくらいで、自分の過ごした時間がモノとして部屋の中にうずだかく積まれているということはそれほどない。現代は時間の身体性を喪失した時代なのかもしれないと思った。

部屋の中に巨大なディスプレイ(プロジェクター?)や何かを埋め込んでそこに映される情報とのインタラクションをより日常的なものとしていくことは、時間の身体性を取り戻してゆくためには必要なことなのかもしれないとも思う。過去の身体性の現代への翻訳として。

トイレへの興味

ひょんなことからトイレに興味を持ってThe TOKYO TOILETのプロジェクト巡りをした。このプロジェクトのトイレの清掃員をテーマとしたヴィム・ヴェンダースの映画『PERFECT DAYS』はあまりに素晴らしかったのでそれは別のnoteで書くことにする。

ただ色々なトイレを勉強して、それは後できちんとまとめるとしても、実に印象的だったのは現代のインドのトイレと昔の日本のトイレであった。

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旧「2023年3月に博士論文を書き上げるまで」。博士論文を書き上げるまでの日々を綴っていました。今は延長戦中です。月に1回フランクな研究報…

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