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言葉と建築~UXデザインにおけるライターの価値

言葉は世界そのものだ。

rainやheavy rainといった表現を中心として雨を知覚する人と、「五月雨」や「霧雨」や「甘雨」や「驟雨」といった幅広い言葉で雨を知覚できる人とでは、世界を眺める解像度が異なる

世界を眺める解像度は、言葉にほとんど依存している。

何百もの雨の違いを知っている人には、毎日違う雨が降り、毎日違う現象で世界が満たされている

世界を作り上げたり、デザインしたりする人は、言葉をたくさん知り、使いこなすことを通して、世界を広げていく必要がある。そこから豊かな表現が生まれると思うからだ。

同時に、ユーザーにも、そんな体験を提供したい。このnoteでは、ユーザーに豊かな体験を提供するための、言葉をつかさどる人と空間をつかさどる人の協働の在り方について整理している。

雨の日本語

例えば、ステキな雨の言葉を少し並べてみよう。こんな言葉がある。

御庭洗(おにわあらい)

これは、祭礼の後に降るのことだ。祭りがあると境内はふみ荒れる。雨が降ることでほこりは落ち着き、雨がそれを均すのだ。神社に平穏が戻る。

この言葉では、土が踏み荒らされ、それがすっとフラットに戻っていくまでの人の営みと自然の原理が描かれている。きっとほこりも流され、食物の油も流されることだろう。それは静かに神社の隅にたまることだろう。

言葉は、一つの現象以上の多様なつながりを内包して世界を形作っている。

星屑の雨

オーストラリアの研究者が、流星群の約三十日後に雨が増えることを突き止めた。流星群が降ると大気中に星の塵が舞う。それが大気中に散った宇宙の塵が雨の核になるのだ、と学者は予測できた。

星が降った後には、星屑がとけた雨が降る。

樹雨(きさめ)

森林に霧がかかって流れる時、霧粒が木の葉や枝、幹などにぶつかり捕捉され、それが集まって大粒の水滴になり枝や葉から落ちたり、幹を伝わって流れ落ちる現象のこと。サーと水が流れる音がするらしい。

霧を植物がからめとる。ちょうど僕たちが霧の中を歩いていると服が少し湿っぽくなるように。

南米のアンデス山脈では、雨が少ないが、よく霧が立ち込める。森の中に60m×60mの黒い網のテントを貼ると、霧を凝集する。それで集水している。この方法で、一日になんと最高11立方メートルの水が得られるらしい。11000リットル。一升瓶に換算すると6100本以上。

僕たちの世界の中には、普段目にすることのない知らない雨の通り道があるはずだ。そこでは雨は、濁流やせせらぎや湧き水といった別の概念へと姿を変えながら、空間を形作っている。

雨極(うきょく)

世界で一番雨が多い地域。インドのチェプランジには年雨量2万6461ミリの記録があり、世界でもっとも雨の多い場所であり、「雲のすみか」と呼ばれていたらしい。雨にも極があるとは考えたことがなかった。

雪の極、雷の極、鳴き声の極、愛の極など色々考えてみたがどこかはわからなかった。しかし雨の極があれば同じようにそうした極も存在しうるのだろう。今自分がいる場所も、何かの極であるのだろう

雨痕(うこん)

雨が降った痕跡のことも指すが、化石の意味もある。太古の泥土に雨が降り痕跡が化石となって残ったものをいうらしい。雨が化石になるとは思わなかった。

僕たちの世界は言葉を知ることを通して広がっていく。

言葉から広がる言葉にならない世界

言葉は世界を広げてくれる。同時に、その先には言葉にならない経験があるはずだ。そこから新しい言葉が生まれる。

すなわち、

言葉を知る→世界が広がり、言葉にならない体験をする→新しい言葉を生む(詩や句も生む)→世界がさらに広がり、豊かになる

というサイクル(というよりスパイラル)を通して世界は拡張される。これはデザイナーもユーザーも同様と思う。

沖縄の民家には「雨端」という空間がある。縁側と屋根の先の隙間。犬走をもう少し機能的にした、縁側下の空間だ。

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犬走りよりも広いスペースになっていて、雨の時でも農作業ができたり、子どもが遊んだりできる。縁側と地続きにつながったような外部空間。地面に触れながらも、雨よりは少し離れ、しかし縁側よりは雨に近い、絶妙な距離感だ。

雨は視覚だけでなく、より身体的な感覚をもたらしている

身体にあたる連続的な粒、服にしみこんでしっとり伝わる温度、雨独特のこもった空気と熱気を含む匂い、あるいは屋根や樋から流れる雨水が地面にあたりびちゃびちゃと跳ねる音と振動…。

雨は縁側や室内から眺めるだけのものではない。全身で、五感を通して感じられることでより幅広い豊かさをもつ。

もしも僕たちが雨の日本語を多く知っていたならば、多様な雨に気が付くことができるのだろう。そうした言葉はひとつのきっかけとなる。言葉がなければ、しばしば世界は茫洋としてとらえどころのないものになってしまう。

そして同時に、雨を身体的に感じられる空間が存在することで、言葉の先へ僕たちは向かうことができる。言葉を入り口として、別の言葉を必要とするフェイズへ到達することができる。

そうして世界は豊かになっていく。言葉だけでもだめで、体験だけでも不足なのだろう。

UXデザインにおけるライターが生む言葉の価値

近年”超総合格闘技”と言われる様々なUXデザインにおいて言葉が重要な位置を占め、ライターや編集者がデザインファームにジョインするのが一つのトレンドとなっている。これはトレンドでは終わらないだろう。

言葉を扱う仕事も当然多いのであろうが、この本質的な価値は、UXデザインの中に言葉と体験のサイクルによる世界の拡張と豊かさの醸成を組み込めることなのだと思うようになった。

ライターは、雑誌やメディアを通して、世界の眺め方を提供することができる。これはユーザーに視点を提供するとともに、言葉を与えることでユーザーの世界を豊かにし拡張するということでもある。

同時に、建築家やデザイナーは、ライターの言葉によって与えられた世界のその先にある、言葉にならない豊かさを孕む世界を作っていく必要がある。

つまり、ライターと空間デザイナーが協働してユーザーに言葉と経験を与えていくことで、ユーザーにとって「言葉を知る→世界が広がり、言葉にならない体験をする→新しい言葉を生む(詩や句も生む)→世界がさらに広がり、豊かになる」というサイクルが回転していくのである。

そうしたサイクルを回転させなければ、本当のところでは持続性のあるUXは生まれず、すぐに飽きのくるものとなってしまうのではないかと思う。

まとめ:雨の日本語と建築~世界の拡張

このnoteでは以下のことを整理してみた。

「言葉を知る→世界が広がり、言葉にならない体験をする→新しい言葉を生む(詩や句も生む)→世界がさらに広がり、豊かになる」ー(★)
というサイクルが大事。

そのためには以下の2点が重要と考えられる。
①体験を多様に知覚するきっかけとなる言葉を与えること(Writer)
②言葉の先にある世界を体験させること(Designer, or Architect)

→UXデザインにおけるライターはこのうち①の役割を担うので、ユーザーに上記の★のサイクルを体験させるのに不可欠。

→建築家やデザイナーは、言葉により始まる世界を理解したうえで、言葉の先にある世界を形作る必要がある。そのためには、「雨は眺めるだけでなく、身体的に感じることでよりパワフルな体験になる」といったような認識がマスト。

最後に

雨は、いまだに原始的な不自由さを僕らに与え、情緒を孕みうる余地をもつ、数少ない存在の一つだ。

テクノロジーが発達するほど季節や世界への感度は下がっていく。さまざまな不自由な瞬間に、多様な手段で対応することから季節の情緒は生まれるのだ。画一的でシンプルな解決策は暮らしを豊かにしない。

例えば暑さに対しては、井戸水で身体を冷やしたり、打ち水をしたりかき氷を食べたり、避暑地行ったり、蚊帳で寝たりするといった多様な手段の実行を通して僕たちは季節を情緒に変換して受容することができる。

雨もまた、不自由な存在であることによってむしろ、僕たちの生活を豊かにしうる。僕たちは、雨を味わう時間をもっと持つべき、というより、与えられるべきなのだ。

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