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諸説あり~日本で最初のテレビCMの話~

私は日本のテレビCMの歴史を研究しています。noteでもCM史のいろんな話題を取り上げていこうと思いますが、まずは基本ネタとして「日本のテレビCM第1号」について書くことにします。

初の民放テレビ局・日テレ開局

日本でテレビ放送が始まったのは1953年、戦争が終わって8年後のことです。2月1日にNHK東京、8月28日に日本テレビ放送網が本放送を開始しました。CMは民放で流れますから、日テレが始まった1953年8月28日が日本のテレビCMの生誕日ということになります。

この日の日テレの番組表は次のとおりです。カッコ内は番組スポンサーで、日テレOBの方からいただいた内部資料(放送番組確定表)に基づいて記入しました。スポンサーが書いていないものは自社負担番組です。

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2番目の「寿式三番叟」(ことぶきしきさんばそう)と3番目の「歌の祭典」のあいだ、午前11時59分30秒から正午までの30秒間に、スポットCMとして服部時計店(SEIKO)の時計のCMが流れましたこれが「日本のテレビCM第1号」とされています。

そりゃまあ、最初に開局したテレビ局で最初に流されたCMが第1号に決まってるじゃないかと、そう思いますよね。当たり前すぎて異論を唱える人などだれもいません。

私をのぞいては。

おそらく世界で私ひとりだけが、この第1号認定には検討すべき問題が含まれていると考えています。なぜか。それをこれから説明します。

精工舎・正午の時報

さまざまな証拠・証言から、服部時計店の第1号CMは「時報CM」だったことが分かっています。時報CMとは、午前10時、正午、午後7時など決まった時間の直前に流れるもので、ふつうのCMのラストに「〇〇社が正午をお知らせします」のようなナレーションが入って(文字が出るだけのこともあります)、「チ、チ、チ、ポーン」と時報音が出て終わりです。セイコーやシチズンなど時計会社がよく作っていましたが、不二家やロッテなどそれ以外の広告主が出すこともあります。

服部時計店は、テレビの草創期に月3~6本のペースで大量の時報CMを制作していました。これを、同社の製造部門の名称「精工舎」を冠して「精工舎の時報」と呼びます。記念すべき最初の1本も正午を知らせる精工舎の時報でした。

あとで詳しく述べるように、このCMのフィルムは失われて現在見ることはできません。しかしキャプチャ画像とナレーション原稿(とされるもの)が残っていて、だいたいどんなCMだったかをうかがい知ることができます。

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出典:全日本CM協議会編『CM25年史』(講談社、1978年)137ページ

「第1号」と「現存最古」の違い

一方、「日本で最初のCM」というキーワードでネット検索をすると、かならず次の動画がヒットします。レトロ映像に興味のある方は目にしたことがあるかもしれません。

これは第1号CMではありません。動画が現存する最古のテレビCMです。この動画はSEIKOの公式アカウントがアップしていて、説明文には開局日の午後7時に放送されたとあります。開局日の夜ということは第2号と考えてよいでしょう。この動画を第2号とみなす説は、私がCM史の研究を始めた2000年頃からずっと言われ続けている伝統的なものです。

しかし、日テレの開局に立ち会った電通ラジオテレビ局の内藤俊夫氏(のちに電通常務、故人)は、この説に異を唱えていました。私が内藤氏から直接聞いた話では、この映像は二十数番目のバージョンなのだそうです。月3~6本のペースで計算すると1953年12月~1954年2月頃のオンエアですね。

SEIKOと内藤氏、どちらが正しいのかは分かりません。しかし少なくともこれは7時の時報ですから第1号ではありません。それだけは確かです。

なお、この映像がなぜ「現存最古」と言えるのかについて、今から15年以上前の取材ではありますが、東京・墨田区のセイコーミュージアムの職員さん、そして映像を制作した電通映画社(取材当時の名称は電通テック)の資料担当者さんのいずれも、「初期の時報CMをまとめた作品集(社内資料)にそのような説明が書かれている」ことを根拠にしていました。

この説明を誰が書いたのかは分かりませんが、なんの裏付けもなくそのように記述するとは考えにくいので、作品集を制作した時には確度の高い情報だったと信じるしかありません。

失われた第1号CM

さきほど第1号CMのフィルムは失われたと言いましたが、その経緯についても内藤氏から聞いています。

1963年、日本テレビが開局10周年の記念番組を制作するさい、初期の代表的なCMフィルムを電通映画社から何本か借りたのですが、オンエア後にフィルムを廃棄してしまい、その中に第1号も含まれていたのだそうです。実はそれが、電通映画社が保管していた唯一のプリントだったため(ネガはすでに廃棄)、第1号CMは永遠に失われることになりました。

ちなみにこのとき、日本初の政党CM(1960)も失われています。池田勇人首相が「私はウソは申しません」と言う自民党のCMで、残念ながらこちらも幻に。

日テレの担当者はまさか唯一のプリントだとは思わなかったでしょう。内藤さんも、まさかこんなことになるとは思わず、予備のプリントを取っておけばよかったと残念がっていました。

この件は渡した電通と受け取った日テレの双方に原因がありました。日テレだけのミスではないということは強調しておきたいと思います。

東芝が第1号である可能性

前置きが長くなりましたが、そろそろ本題に入ります。精工舎・正午の時報は本当に日本のテレビCM第1号なのか?

私はふたつの理由から、この説を採用するには条件があると考えています。

ひとつは、さきほどの開局初日の番組表をもういちど見てほしいのですが、精工舎の時報が流れる前の番組「寿式三番叟」の提供が東芝と書かれています。提供した以上は、何らかのコマーシャル・メッセージ(CM)があったと考えるのが自然です。

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祝賀舞踊「寿式三番叟」(天津乙女ほか)の様子
出典:日本テレビ放送網株式会社社史編纂室編『大衆とともに25年:写真集』(1978)

「寿式三番叟」では、おそらく精工舎の時報のようなフィルムCMは使われませんでした(何の情報も残っていないので)。しかし、CMとはなにも、アニメや音楽を駆使した映像表現である必要はありません。アナウンサーがスポンサーがらみの気のきいたセリフをちょっと言うだけでも、それは立派なCMです。

たとえば「この番組の提供は東芝でございます。東芝ではテレビジョン受像機の生産に向けて日夜研究を重ねております」みたいなセリフをアナウンサーが言ったとしたら、それはもう100%CMであり、日本のCM第1号です。

当時の広告専門誌ではそのていどの読み上げ文でもCMの一種としてコツが議論されていました。テレビの2年前に始まった民放ラジオで、そうした読み上げ広告が重視されていたからです。生産者の意識の中では、読み上げも立派なテレビCMとみなされていたはずです。

「寿式三番叟」にもし広告文の読み上げがなかったならば、精工舎の時報が第1号でもいいでしょう。しかし、あったならば、精工舎の時報は第1号ではなくなります。あったかなかったかは分かっていません。でも提供しておいて何もなかったとは考えにくいので、何かあった可能性はあります。

だから精工舎の時報は、永遠に「第1号(暫定)」なのです。

今日では、ちょっとした宣伝文句の読み上げはCMとみなされないでしょうから(放送基準上は今でもCMだと思いますが)、今の感覚では東芝のCMは除外になるのかもしれません。でも私は、こういうものは当時の枠組みで判断すべきだと思っています。東芝にもワンチャンあるのです。

放送事故はCMと呼べるのか

精工舎の時報・第1号説を条件つきだと考える第2の理由は、このCMが放送事故を起こしたからです。このCMは、放送前のリハーサルのあとフィルムを巻き戻すのを忘れ(内藤氏は「全員疲れていたから」と回想していました)、本番でそのまま映写機にかけたために、逆回しで再生されてしまいました。

逆回しではコマーシャル・メッセージが視聴者に伝わりません。だからこれはCMとして不成立だった、という理屈がありえるのです。

このトラブルについて、ある時期まで「3秒で中止になった」という記述が散見されましたが、複数の関係者から否定され、現在では「逆回しのまま30秒流れた」とされています。さきほどの公式動画の説明文にも3秒で中止と書かれていますが、これは間違いです。

3秒中止説はおそらく、服部時計店の宣伝部長・片山俊三郎氏の次の回想文がソースです。

この第一号はとんだことになった。フィルムが裏返しに放送されてしまったのである。もちろん、音は出ない。それどころか、サウンド部分がチラチラと画面にでている。私は思わず息をのんだ。担当もおどろいたのであろう。時報はセイコーというタイトルがでたところで、フィルム放送を中止してしまった。その間、僅か三秒足らず。
(『電通報』1961年4月19日号)

この文章がCM史のバイブル的存在『CM25年史』(1978)に掲載されたため、3秒中止説が広まったと思われます。真相は分かりませんが、当日現場にいた内藤氏と、日テレOBの技術者さんがいずれも強く否定してらしたので、片山氏の勘違いだと考えています。

もしかすると、日テレの2年後に開局したラジオ東京テレビジョン(現TBS)でも、開局日の時報CMが逆回しになる事故がまたしても起こっているので(岡田芳郎「テレビ・コマーシャルの60年」『AD STUDIES』41号を参照)、そちらと記憶違いをしたのかもしれません。

味の素にも第1号の可能性

精工舎の時報がコマーシャル・メッセージとして成立しなかったとなると、次の番組がにわかにクローズアップされてきます。12時から放送された味の素提供「ミュージカル・バラエティ歌の祭典」です。日テレの資料には出演者にナンシー梅木、新倉美子とあるので、ジャズテイストの音楽ショーだったと思われます。

新倉美子(しんくら・よしこ)さんは驚くほど今風の美人さんです。

東芝の「寿式三番叟」は10分と短い番組だったので、もしかするとまとまったコマーシャル・メッセージはなかったかもしれません。しかし「歌の祭典」は30分の堂々たる番組なので、何らかのCMが入った可能性は相当高いと私は考えています。

フィルムCMはたぶん使われなかったと思いますが、司会者が味の素に関するなんらかの文章を読み上げたり、あるいはスタジオに味の素のロゴが飾り付けられたりしていたら、当時はそういうものもCMの一種として議論されていたから、それこそがコマーシャル・メッセージとして「成立した」第1号だと言えるでしょう。

メヌマポマードにも第1号の資格あり

いや、そういう読み上げとか看板とかはCMとして認めない。ちゃんと数十秒の映像表現じゃなくちゃダメなんだ。東芝も味の素もダメだ。というのであれば、「歌の祭典」終了後の12時29分30秒から流された、この日2本目のスポットCM「メヌマポマード」に第1号のお鉢が回ってきます。

私は博士課程の学生だった2003年に、なぜかこの話にやたらとこだわり、この日のメヌマポマードのCMについて執拗に追跡したことがあります。

メヌマは小規模ながら現存する会社なので、まずは電話番号を調べて(当時はネットに情報がなく苦労しましたが)、社長さんに連絡をとりました。社長は自社が開局初日にCMを出した事実をごぞんじでしたが、関連資料はないので、代理店は協同広告だったからそちらに問い合わせてほしいとのこと。そこで協同広告の広報に連絡すると、当時メヌマを担当していた営業の方(取材時80歳)を紹介してくださり、話を聞くことができました。

その方の回想によると、開局日に出したメヌマポマードのCMは、パターン(文字や絵を描いた厚紙)の静止画像にラジオCM風の読み上げ文をつけたもので間違いないだろうとのこと。私が小さい頃にもよくあった、画面が動かないタイプのCMですね。

パターンの現物は残っていませんが、翌1954年の広告専門誌にメヌマの静止画CMが掲載されていたので、参考までにそちらの画像をつけておきます。たぶんこれに近いものだったと思います。

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出典:『電通月報』1954年9月、36ページ

歴史は何通りにも表現できる

というわけで、日本のテレビCM第1号をめぐるあれこれをお話ししてきました。候補は4社。東芝、服部時計店、味の素、メヌマです。どれが第1号かは考え方によって変わってきます。

歴史なんて、客観的事実の積み重ねのようにみえて、実は書き手のとらえかたでどうにでも変わるものですから、答えがいくつもあるのは不思議ではありません。ただ、そうであることをつねに自覚し、私たちは特定の枠組みの中で歴史を見ているのだということを分っているのは大事だと思います。

精工舎・正午の時報を日本のテレビCM第1号とみなすには、(1)コマーシャル・メッセージとして成立しなかった点は不問にする、(2)東芝がCMをしたかどうか分からないのでそこは不問にする、(3)もし東芝がCMをしていたとしてもたぶんアナウンサーのセリフていどだから、CMとはみなさない。この3つをすべて了解することが必要でしょう。

個人的には、開局初日から果敢にフィルムCMを流そうとした服部時計店の勇気とフロンティア精神はたたえられるべきで、その意味で第1号の栄誉が与えられることにはまったく異論はありません。その後も草創期の民放テレビを支えたもっとも重要な広告主ですし、私は精工舎の時報をリスペクトしています。

私だけでなく、広告業界全体がそのようなリスペクトを抱いているからこそ、精工舎の時報に日本のテレビCM第1号の栄誉が与えられ、だれもそれに異論をはさまないのでしょう。

ただ、それは当たり前のことではなく、ある歴史観を選び取った結果であるということは心にとどめておきたいと思うのです。

(終わり)

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【追記】
ややこしくなるので本文では省略しましたが、じつは、精工舎・正午の時報についてまったく知られていないもうひとつの説があります。それは「時間が押して精工舎の時報は放送されなかった」という説です。以下は、日本テレビ取締役・秦豊吉が開局の1週間後(9月5日)におこなった対談での発言です。

(寿式)三番叟だけ自分でモニター・ルームでついていてやりましたが、そうしたら味の素の道面さんの演説が長くなったのに、それでそのまま踊りをやったから十二時過ぎちゃった。十二時を廻っちゃったので服部さんの時計が出なくなった。服部時計店ではテレビの前に皆集まって待っていたんだそうです。これは大変なお叱り。(『電通月報』1953.10)

「味の素の道面さん」とは、最初の番組「開所式実況」でスピーチした味の素社長・道面豊信のことです。道面氏が長々としゃべったうえに、次の「寿式三番叟」の尺を詰められなかったので、12時をすぎてしまい精工舎の時報が出なかったという話です。

開局1週間後の対談ということで、本文で引用したどの証言よりもリアルタイムだから、信ぴょう性は高いと考えるべきでしょうか。しかし、このCMについて言及した他のすべての証言とことごとく矛盾するので、さすがにこれは秦さんの勘違いだよなあ・・・と考えています。

リアルタイムで現場にいた人でも正確な情報を得られていなかったのだから、何十年もたってからの回想が正しいとは限りません。だからいろんな説を併記して、それぞれが判断するしかありません。このブログもあくまで「コウノ説」にすぎないことを最後に付記しておきます。

初期のテレビCMについて詳しく知りたい方はこちらをどうぞ!