小路楓

音楽と食べ物と自然よ。そして人よ。 http://twitter.com/syoji_…

小路楓

音楽と食べ物と自然よ。そして人よ。 http://twitter.com/syoji_kaede

最近の記事

ブルー・ドーナツ #1

大きな婦人が欠伸をした。窓からは甲板で寛ぐカモメの姿が見える。そこから東の窓に向けて穏やかな風が流れていた。波も気を使って声のトーンを下げている。 ノックの音が3回した。 入口にはブルーのワンピースを着た女性が立っていた。 「ごめんください、この辺りのことについて少しお伺いしてもよろしいですか」 右手には華奢な腕と不釣り合いなずっしりとしたボストンバッグが握られていた。旅行者だろうか。 「ええ、かまいませんよ」 なるべく穏やかに、そう思いながら若い店主は返事をした。

    • Portrait In Portrait #2

       白い紙が幾枚も壁に揺れている。ミスタ・タカハシの髪も一緒に揺れている。その隙間にある影まで揺れている。部屋の中は風に満たされていた。 「すべては滞りなく進んでいる」ミスタ・タカハシは小型飛行機の模型のプロペラ部分を回しながら言った「君の尽力のたまものだね。うんうん」  それが回ることと私の仕事とがなんの関係があるのかさっぱりわからなかったが、ただ彼の満足そうな笑みを見ていると、夏の昼下がり民家の窓から流れていたシューマンの音を思い出した。思えばミスタ・タカハシはなんとなくシ

      • 朧月

        ありとあらゆるものが静寂に包まれている。言葉は失せ光は連続性を失い尽く人情が悲しみに溢れていた。もしかすると、世界は永劫にこの静寂の中に沈むかもしれないとすら思った。誰も彼もが深い沈黙を守っている。 ただカーテンのみが微かな風に揺られ、幻聴のように衣擦れを奏でているようだった。 自ずから感じられるのは、正常を微かに残したまま酔いに負け、異常が嫌に背筋を伸ばして存在を誇示する現状だけだった。 私は酔いに負けたのだ。 これまで1度としてそのようなことは無かった。 酒を酒で割ろう

        • ごみ捨て場の主

          これまでに失ってきたもの達へ花束を贈ろう 途方もない道程で出逢い そして去っていったもの達へ この部屋は君たちに安らぎを与えられなかったかもしれない 君たちにとってあの時間は忘れ去りたい過去かもしれない それでも私は時たまそれをとり出し吐息とクロスで丁寧に磨く あの時あの一瞬にある輝きを捨てずにとっている それは懐古主義だとそれはエゴだと罵ってくれ 底のすり減ったフライパンが壁にかかるこの部屋で 私は紛れもなくごみ捨て場の主なのだから

        ブルー・ドーナツ #1

          電車

          車内の息苦しさから逃げるように、あの人からもらったマフラーに顔を埋める。

          サブマリン・オブ・スノー

          あの年の雪は果てしなく積もった。どのくらい果てしないかというと、海をも白銀の世界に変えてしまうほどである。 ぼくらの街はそんな暖かいとは言い難い雪の抱擁を、嫌々ながらも受け入れるほかなかった。いまはもう街路樹もバスケットボールのコートも連なる屋根も解体業者のトラックもなにもかも雪の下である。 そんな氷漬けの街のことを思いながら今日もぼくは海の中にいた。ここ数年ずっとこんな冬が続いている。人々は潜水艦に避難し遥かな冬の雪解けを待ち望んでいた。 すべての人が潜水艦に乗ること

          サブマリン・オブ・スノー

          夜風

          頭上の窓が鳴る。風のせいである。 ベッドは窓の影をのせるようなかたちで置いてあり、いつも頭が窓へと向いていた。そのおかげで窓の外の様子はよく窺える。 いつもは海辺の灯台よりもまっすぐと空へ伸びている杉が、いまは大きく揺れている。月の浮き上がらせた雲は海上を滑るボートのように空を流れていく。 風は何一つとして差別をしない。見境がないといってもいい。とにかく、この部屋の中以外のありとあらゆる場所に風が吹いているようだった。

          シェイビングス

          ウイスキー独特の香りが鼻孔にふたをする。スモークは微かに光を反射してそこら中に漂う。そうしたなかで、まともに働くのは聴覚だけだった。しかし耳がとらえるための音はなく、ただ恥ずかしげに身を潜めた何かの気配だけが、酔った脳を恐る恐るつついていた。 こうして実際に死ぬことを試みるに、これがいかにあっけないことであったかを思い知る。これとはつまり「人生」である。長い間これを携えて歩いてきたが、終わらせるのはじつにあっけない。つくづく人生はドミノのようであると感じる。せっせと並べてき

          シェイビングス

          ボーイ

           実によく跳ねるピアノだ。ドアの音にも動じずに、スキップを続ける。川の流れに乗った小舟のようにも聴きとれた。今の私の中には見いだせなくなったものが確かにそこにはあった。 「――先生、どうでしょう」  あぁ、悪くない、相変わらず君らしい良い演奏だ。と彼の成長に感極まって頭をなでる「それにしても、君はいつも楽しそうにピアノを弾くね」  私は何の気なしに問いかけると、先生は楽しくないんですかと逆に聞き返された。  あぁ、いいね。そんな言葉が小さく口をついて出る。 「いや、