ボーイ

 実によく跳ねるピアノだ。ドアの音にも動じずに、スキップを続ける。川の流れに乗った小舟のようにも聴きとれた。今の私の中には見いだせなくなったものが確かにそこにはあった。

「――先生、どうでしょう」

 あぁ、悪くない、相変わらず君らしい良い演奏だ。と彼の成長に感極まって頭をなでる「それにしても、君はいつも楽しそうにピアノを弾くね」

 私は何の気なしに問いかけると、先生は楽しくないんですかと逆に聞き返された。

 あぁ、いいね。そんな言葉が小さく口をついて出る。

「いや、私も楽しいさ。でも、君のほうがより格別に楽しそうに見える。いったい君は何を思いながらピアノを弾いている?」

「むむ、これは難しい質問ですね」眉間にしわを寄せ、小さな大人はうなった。

 窓の外に立つ木から、なにかが飛び去る。壁にかかった振り子時計の振り子だけが、絶えず何かを呟いている。少ししてから少年は答えた。

「――小説、ですかね」

 真面目な顔をして彼が言う。その様子が愉快になり、すこし意地悪を言いたくなる。

「なんだか抽象的だな。それはなんだ、君がよもや作家というわけかい?」

 彼は焦ったように訂正をする。

「あぁ、違います、違いますよ。僕は作家じゃなくって読者です。つまり、その、楽譜の中に潜むストーリーを読み解く者になるってことです」

 なるほど。などと、納得してしまった。それは私が長年抱いてきた感覚と、深い部分で一致していたのだ。

       ◇ ◇ ◇

「年端もいかぬ頃の僕の言葉を、あの方はよくうなずいて聞いてくださったよ」

 彼は私によく、昔自分が習っていた先生の話をする。“あの白髪交じりのオールバックが懐かしい”が彼の口癖だった。

「あなたは今でもそう思っているの?」

「そう、とは」

「つまり、演奏家は小説の読者のようなものである、ということよ」

 その言葉について彼は少し考え込む。彼の見つけようとする答えの在り処が深ければ深いほど、彼の眉間の皺は濃くなった。付き合い始めて二年目にして気づいたことのひとつだった。

「――今は違う」

「違うの?」

「うん。僕はあのころクラシックピアノにしか触れていなかったから、見えてないところがまだまだあった。けれど演奏家が創作することだって多分にある。きみの好きなジャズだってそうだろう?」

「えぇ、そうね。でもじゃあ、いまあなたはどう思ってるのよ。読者じゃないというのなら」

 彼は既に答えを用意していたのだろう。すぐさま答えが返ってくる。

「僕らは文字だ」

 彼は満足そうに答えた。

 日も暮れ互いにお腹がすいた頃。どちらともなく夕飯の支度が行われる。

 あの先生はいい先生だった。今でもそう思う。けれどやはり、人生という限られた期間の中では、あの先生にも攫みきれなかったことが沢山あったのではないか。かくいう僕もきっと、様々なことを見落としながら――見えているものがすべて真実であるということを疑うこともできず――生き、そして死ぬのだろう。

 窓から見上げた空には、満月になりきれない月がぽっかりと浮かんでいた。

 静かな夜だった。

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