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読書記録|手づくりのアジール(青木真兵 著)⑥

私にとって「研究」は、対価としてお金を得る労働であり、時間を忘れて打ち込める趣味であり、生活や思考全体を組みかえるきっかけをくれる大切な活動でもある。「研究」は職業だが、より広い意味を持っている。
本書にある、働くことに関する文章を読んでそう考えた。

青木 現代社会では働く=対価としてお金をもらう労働とされ、自らを、労働力を提供する商品として売りに出すことが「働く」ことだと考えられています。[中略]一方、ぼくは「働く」=「労働」とか「社会」=「市場」とは考えていません。人間には労働力としての側面もありますが、商品化されない感性の部分もある。商品化の波に飲み込まれないようにどうやって自分を守っていくかが、楽しく生きていくための大きなポイントだと感じます。

青木真兵 (2021). 「手づくりのアジール」 p.72.

働くことは、複数の側面を持っている。しかし、うっかりすると「働く=労働」と狭く捉えがちである。本書では、働くことの多義性を再確認するヒント(=商品化の波から自身を守るヒント)としてアーレントの人間の条件における、3つの分類を紹介している。

百木 アーレントは『人間の条件』で人の営みを三つに分けて分析しました。「労働(labor)」は、人間が生命・生活(life)を維持するために行う営みです。簡単に言うと、「食うために働く」というのが労働の領域です。それとは別に「仕事(work)」の領域があります。「仕事」は耐久的なモノを作る営みです。家や机や椅子のように一〇年、二〇年かけて残る使用物を制作するのが「仕事」です。三つ目は「活動(action)」です。これは主に言葉を用いて他者とコミュニケーションを行う営みです。誰かとおしゃべりしたり議論したりすることが含まれます。これら三つの営みによって成り立つ生の営みを、アーレントは「活動的生(Via Activa)」と呼びました。

青木真兵 (2021). 「手づくりのアジール」 p.75.

働くことは「労働」の側面だけでなく、「仕事」や「活動」の側面がある。
私にとって研究は、「労働」であると同時に「仕事」や「活動」の営みを含む。
よく思いだしてみれば、大学院のころは「活動」を重視していたように思う。大学院生が集まる談話室やゼミなどで議論を重ねたり、市民とコミュニティを作ったりもした。対話を重ねる「活動」の営みを繰り返した。
その一方で「仕事」の側面は、あまり重視していなかったように思う。それは、百木さんの著書(アーレントのマルクス)を読んだときに気づいた。

新しい「始まり」をもたらす「活動」の行為それ自体がどれだけ輝かしく美しいものだったとしても、その栄光を具体化し記憶させる「工作物」がなければ、その「出来事」はすぐに消え去り、忘れ去られてしまうだろうとアーレントは考えていた。逆に言えば、「始まりの出来事」や「活動の輝かしさ」を具体化し記憶するための「作品」と、それをつくり出す「仕事」がその役割を果たさない限り、「活動」の意義はその耐久性を保つことができない。つまり、「仕事」による「作品化」の輝きがあってこそ、「活動」は初めてその輝かしさを記憶されることが可能となるのだ。

百木漠 (2018). 「アーレントのマルクス――労働と全体主義」 p.282.

自分は「活動」を重視していたが「仕事」を重視していなかった。「仕事」の営みを通して、作品化することが十分にできなかった。それは、研究を作品化するフォーマットとしての論文に、表現上の限界を感じていたことが一つの原因だろう。在学時はこの事実と十分向き合うことができなかった。
そんな反省を込めて、現在の私が行っているのは、研究を作品化するフォーマットを複数化する試みである。例えば、vol.1では「再読する」を、vol.2では「対話する」を、vol.3では「読書記録をつける」をZINEとして出品(作品化)した。大学院の頃は作品化しようと思いもしなかったものを、わざわざ制作しているのだ。この作品化の試みを通して、研究における「活動」「仕事」「労働」をつなぐ何かを考えられたらと思う。

また、近しい問題意識は、芸術(アート)の世界にもあることを、本章の参考文献(池田剛介著 「失われたモノを求めて――不確かさの時代と芸術」)を読んで感じた。

芸術に内在する問題そのものが蒸発し、アーティストの作者性が作品の単位もろとも霧散していくなかで、アーティストは芸術の外側にある社会や政治へと向かう傾向を強めている。アーレントの区分を用いるなら、こうした同行は〈活動〉への接近と位置づけることができる。だがそもそもアーレントはアーティストを、流動的な環境に抗するためのモノ(things)をもたらす〈仕事〉を行う存在としていた。こうした〈仕事〉は孤立や孤独といった閉域によって可能となるのであり、それが経済や社会に完全に飲み込まれてしまえば、〈仕事〉による生産物たるモノとしての性質は失われてしまう。

池田剛介 (2019). 「失われたモノを求めて――不確かさの時代と芸術」 p.58.

本書では「いま作品はいかに可能か」という問いを立てている。大量消費社会が到来し、芸術が教養の印として使われる現在において、また、モノよりもコトが重視される現在において、モノとしての作品がいかに可能かを考えている。かつてあったような仕方で作品化することが難しくなる中、改めて作品(モノ)を制作する「仕事」の営みを再検討している。
池田さんは「いま作品はいかにして可能か」という問いへの回答を2つ用意している。その一つは「アマチュアであること」という回答だ。普段は、会社員や学生など割り当てられた役割や職能を生きている人々が(小劇場で演じる人々が)それらを離脱し、アマチュアとして仮設的にモノを制作することが、いま作品がとりうる一つの形だということだ。

それぞれの小劇場から離散した人々が、徹底して個別であるままに、再び他なる存在と出会いなおすこと。そこには私たちが人のみならずモノとも出会いなおしながら、生きるための場の制作を始める契機がある。それは必ずしも制作者の職能をもって為されるものではないために、仮設的な〈仕事〉でしかあり得ないが、仮設であるからこそ自由な遊びを呼び込み、すでに樹立された人とモノとの安定的な秩序を揺さぶりながら、既存の空間を作り変えることもあるだろう。

池田剛介 (2019). 「失われたモノを求めて――不確かさの時代と芸術」 p.69.

池田さんは赤瀬川原平の「超劇場」という概念を参照しながら、小劇場の外に広がる外部世界は「個別な存在として離散した人々が個別であるままに出会いなおし、仮設としての制作が開始される超劇場でもあるはずだ」と述べていて興味深い。私も、研究における仕事、仮設としての制作、作品、超劇場など考えてみたい。


「ルチャ・リブロを読み直す」第3回読書会
課題図書:青木真兵(2021)『手づくりのアジールー「土着の知」が生まれるところ』晶文社
第3回:「対話2 これからの「働く」を考える 百木漠×青木真兵」(P67-87)
2024年6月24日(月)20:00~22:00
会場:homeport(北20条)or オンライン
どなたでも参加可能です。参加希望の方は下記までご連絡ください。
kohan.seisakushitsu[a]gmail.com
 ※[a]を@に変更してください


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