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読書記録|手づくりのアジール(青木真兵 著)①

2023年9月30日「つくる人になるために: 若き建築家と思想家の往復書簡(光嶋裕介・青木真兵 著)」を買うため、西荻窪fallに向かった。
fallでは、青木さんが運営する私設図書館「ルチャ・リブロ(Lucha Libro)」の展示をやっていたため、そこで買えると踏んだのだ。

店に入ると、平積みされた「彼岸の図書館」と「手作りのアジール」が目に入る。しかし「つくる人になるために」は見あたらない。
お店の方に、ありますか? と尋ねる。
「つくる人になるために」だけが無いですね…とのお返事。
そうか無いよなぁ。発売してすぐだもんなぁ。

多少の無念さを感じながら、じゃあ「彼岸の図書館」と「手づくりのアジール」をください。とお店の方に伝える。
私の無念さを感じ取ったのだろうか、お店の方は言う。今日は著者の青木さんがいらっしゃってるんですよ。サイン頼んでみましょうか?
え!いいんですか?と返す私。
頼んでみますよ。と言い残し、奥へと消える店員さん。

そして、青木さんは颯爽と現れた。
本を買ってくれてありがとうございます。お名前書くので、もしよければ教えてください。
そうだ。サインには「○○さんへ」という宛名があった。と思い出して、自分の名前をメモ用紙に書き、お渡しする。
頼まれてすぐこのワードが出てくるとは、さすがサインを書きなれているんだなと思う。

メモ用紙を受け取った青木さんは、丁寧にサインを書きながらつぶやいた。
これは当事者研究をヒントに始めたことなんですよ。
申し訳ないことに、当時青木さんの著書を読んでいなかった。そのため、ピンとはこなかったが、その後著書を読む中で、当事者研究をその根っこに感じるようになった。当事者性を退けるのではなく引き受け、生活に接するところで研究をし続けると、生きた痕跡がそのまま研究になる。そんなかんじ。

サインのお礼を言って帰ろうとすると、店員さんに声をかけられた。
駅近くの今野書店なら「つくる人になるために」売ってるかもしれません。

ありがとうございます。とお礼を言い、今野書店の場所を調べる。
西荻窪駅の近く、つまり帰り道にあるようだ。
せっかくだから立ち寄ってみるか。と歩き出す。
今野書店を見つけ、店内に入る。
探し始めて5分ほど。
棚の隅に3冊おいてあるのを見つけた。
ありがとうございます。今野書店さん。fallさん。
そう心の中でつぶやき、1冊購入した。

それにしても、今野書店にあるかも、と言えるfallの店員さんはすごい。
書店や著者、そしてこの街が好きなんだなぁと思う。
西荻窪の街は大きな本屋さんみたい。そう思いながら帰路に就く。
また西荻窪に来よう。

さて、購入した「手作りのアジール」の「はじめに」を読んで、
以下の文章が心に残った。

(自宅を図書館にした)なによりの理由は、図書館で働いていたころの妻が、一番活き活きと楽しそうにしていたからです。であるならば、そういう環境を作ってしまえばいい。薬を飲んだりカウンセリングを受けたりして本人だけが変わるのではなく、かつて力を発揮できる好きな場所があったのなら、その要素で「世界」自体を構築してみたらどうだろう。

青木真兵 (2021). 「手作りのアジール」 p.18.

真兵さんは、パートナーである海青子さんの体調が整うよう、彼女が力を発揮できる図書館を一緒に作った。それは、家を決め、本棚を作り、本を並べるという、モノのデザインであったように思う。

私のような心理学者にとって、体調が悪くなった時のサポートとしてまず思い浮かぶのは、本人の変化を促すサポート(カウンセリング)だろう。あるいは、本人と周りの人々(家族、友人、同僚など)の関係性を整えるサポートも思い浮かぶ。
しかし、ここで行われているのは、本というモノに囲まれた場所(=「世界」)を作ること。つまり、力を発揮できるモノを作ることだ。

では、海青子さんは、本や図書館というモノをどう捉えているだろう。
著書の一節を見てみると、こうある。

本は「窓」のようだとつねづね考えています。扉、ではなく窓。ドアノブを回してすぐに別の世界に繰り出せる装置ではないけれど、窓があれば今いる部屋とは違った世界を感じることができます。窓は、外の世界の優しい風や照り返す強い日差し、雨の湿った匂いや、木々花々のあざやかな景色を部屋に届けてくれるのです。そして本というのは、時空を超えて色とりどりの景色や風、光を届けてくれる素晴らしい窓だと思います。(p.30)
[中略]
私達にとって自分達の蔵書というのは、自分達が何で悩んだり、何を問題だと考えたりしてきたかをそのまま閉じ込めた思考のあとさきのようなものです。その蔵書を開くということは、自分たちの問題意識をそのまま外に開くということと同義です。つまり私達にとって私設図書館を構え蔵書を一般に開いたことは、抱えきれない問題意識を開き、「一緒に考えてくれないか」と誰かを呼び込んだということだったのです。(p.41)

青木海青子 (2023). 「不完全な司書」 p30 & p.41.

本とは窓である。
本に囲まれることは、世界へつながる窓が、まさに物体として目の前に広がることに等しい。

自分の手で棚に本を置くことは、自分の考えを「世界」に具体化することである。自分の考えを物理的なモノに託し、棚に置き、"私"と距離をとる。

蔵書(本棚)を開くことは、自分たちの悩みや問題意識を他者へと開き、一緒に考えてくれないかと呼び込むことである。それは必ずしも、膝を突き合わせて喧々諤々と議論するだけではない。置いた本が読まれることや、貸した本に付箋が張られることも他者の呼び込みだ。

心理学者は本人のこころや関係性に目を向けた支援を行いがちだが、もっとモノを作り出すこと/置きなおすことに目を向けてもおもしろいと思う。

そういえば最近読んだ、ひとり出版社「代わりに読む人」代表 友田さんの本にこんな一節があった。

本屋には行く。なぜなら、体にいいからだ。そう思っている。私にとって本屋に行くことは一種の健康法である。だからそれがしばらく叶わないとなると文字通り死活問題となる。実際、今年の正月にも本屋に行かない日が何日もつづき、そろそろ行きたいと禁断症状で悶えていたら、とうとう風邪をひいてしまった。やはり本屋には毎日行くほうがいいのである。

友田とん (2023). 「ナンセンスな問い:友田とんエッセイ・小説集1」 p.12.

本というモノが並ぶ場所は、体に良い。
私にはしっくりくるし、先の青木夫妻の記述とも近い。

また最近読んだ、書店Title店主、辻山さんの本にはこんな一節があった。

実際にそれが本というものとなって、一冊一冊入ってくるとまた違う感じがします。大きさ、紙の質感、佇まい……。パソコンのデスクトップの中にある書名と、実際にそこにある本とでは、発する情報量が違います。
そうした言葉にならない感覚を感じながら、リファレンス機能を重視した基本的な見やすさのルールは押さえつつ、大きさや色をそろえたり、一緒に読んでもらいたい本を並べて置くなど実際に入ってきた本の特徴を活かしながら棚に並べていくのが本屋の仕事の醍醐味です。
一冊だけでは一冊の本にすぎないものが、ある規則に従いながらほかの本ととともにずらりと並ぶことで、より深い意味を帯びてくる。そうした深まりが棚のさまざまなところにできあがりつつあるのを感じながら、一冊一冊並べていくのです。

辻山良雄 (2020).「本屋、はじめました 増補版――新刊書店Titleの冒険」, p137.

本は物体として存在する。
だから、"私"からは切り離されるし、並べ替えることもできる。
過去の自分と今の自分の問題意識が本棚の中で並立する。
それを並べ替えれば、問題意識同士が別様なつながりを生み出す。

私は最近引越をして、本棚を整理したのだが、本がどこに置かれるかで、その位置づけや意味合いが変わることに改めて気づいた。
新たな配置になじむよう、新たに本を買ったり、積んであった本を手に取って読み始めたり、並べ替えを繰り返したりする。
本の布置は私たちの考えを組みかえる。
同じように、変化した考えに基づいて本の配置が再編される。

そう考えると、何か悩みがあったときや、元気がないときには、気分転換に本棚を整理するとよいのかもしれない。
凝り固まった考え方が組みかわる、きっかけをくれるかもしれない。

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青木真兵さんのことを教えてくれたのは、homeport の山崎翔さんだ。
山崎さんとは、2023年7月、文学フリマ札幌8に出展したことがきっかけで知り合った。この文章は彼との読書会のために書いている。

最初の読書会では「第1章:「闘う」ために逃げるのだーー二つの原理を取り戻す」について、ざっくばらんに会話する。誰でも参加可能だと思うので、興味がある方は山崎さんまでご連絡を。

次回は、第2章について書く予定だ。

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