【ふたりの夫】会話する、ということ。

わたしたち3人は、日常的によく会話をする。

そのことについて「ふぅん」と思うか、驚くか、反応は人それぞれで、その反応の違いによってわたしは、世の中にはいろんな家族や夫婦がいるのだとつくづく思う。

「ふぅん」という反応をする人は、同じように家族内でよく会話をする人なのだろう。「まぁ、同年代が3人いれば話す相手には困らないだろうね」と言う人もいた。

驚く人からはたいてい「よくそんなに話すことがあるね」と言われる。追加で「アキとフユは普段は口数が少ないのにね」と言われることもある。

わたしは元来お喋り好きなので、会話のきっかけはわたし発信のことが多い。

アキとフユは他の人たちといるときは聞き役にまわりがちだけれど、じっくり考えて言葉を発するタイプというだけで会話自体が苦手だとか嫌いだとかそういうわけではない。しいて言うなら、会話のテンポを合わせるのが苦手、なのだと思う。

だからわたしは3人で話すとき「アキはどう思う?」「フユは?」とまるで議長のように促して、2人の吟味した(というのは大袈裟だけれど)言葉を待つ。
2人のテンションが高めのときは、わたしが促さずとも会話はポンポン進む。

わたしは2人についてもっとたくさん知りたいし、アキとフユにもお互いをもっと知ってもらいたいと思う。
3人で暮らすようになって7年経つけれど、その思いは変わらない。

3人でする会話は、たいていわたしの質問から始まり、その内容はどうでもいい空想話が多い。
シンプルな例を出すと「宝くじが当たったらどうする?」とか「魔法使いが現れたら何をお願いする?」とか、その手の類の話だ。
ほんとうにどうでもいい話ばかりだけれど、だからこそ楽しいとわたしは思う。

時事ネタについて感想を言い合うことも、しばしばある。簡単な政治の話からエンタメまで、ジャンルは広く、そして浅い。そのくらいがちょうど良い。
3人の価値観はおおよそ似ているので、意見が対立することはなく、それゆえ議論にまでは発展しない。言いたいことを言い合って、同意し合って終わる。

「好きなものが共通しているより、いやなことや許せないことが共通しているほうがうまくいくんだろうね」
というのがわたしたちの持論で、実際そうなんだろうなと思う。
そういう意味で時事ネタは、3人の許せないラインやポイントを自然と確認し合える恰好の話題とも言える。

日常的によく会話をすること。
今のわたしにとってそれはごく当たり前のことで、他人が同様のことを言っていたら「ふぅん」と反応するかもしれない。

だけどかつてのわたしなら、きっと驚いただろう。

厳格で気分屋で否定的な相槌を打ってばかりの両親の、機嫌を損ねないよう慎重に言葉を選んでいた、かつてのわたし。
空想の話なんて、しようとも思わなかった。“くだらない話”なんて、家族内でしてはいけないと思っていた。

会話することは、許されていることと似ている。
許されていることは、愛されていることと似ている。

アキとフユに許されて、愛されて、わたしは今日も明日もくだらない話をする。
答えなんてないような、だけど2人の答えを知りたいがゆえの、そんな会話を。

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