ある冥府での話
あたしには四つ上の姉がいた。
あたしが十の時、姉と一緒に毎夜冥府に連れ去られたことがある。
しかし、それを両親に話しても笑って取り合ってくれなかった。
ただの夢の話だと思っていたのだ。
そしてそれはあたしが無事に成人し終えた今でも、現実のことだったと信じてはいない。
というより、忘れているのだろう。
自分の娘たちが夜な夜な冥府に連れ去られていたことなど。
何故あたしたちが連れ去られていたのかは、今でもわからない。
でも夜に目を閉じて朝に再び目を開けるまでの間、つまり眠っている時にあたしたちは冥府に連れ去られていた。
肉体は家の布団の中のまま、あたしたちは幽霊というか魂のような状態で連れ去られていたのだ。
それでも朝になるときちんと布団の中で目を覚ます。
そして眠たい目を擦って布団から這い出し、行儀よく着替えや食事を済ませて学校に向かう。
そんなことが春先から三週間ほど続いていた。
ただ、あたしと姉の認識は違っていた。
姉は自分が冥府に居るとは思っていなかったし、それこそ両親と同じでただの夢だと考えていたのだと思う。
だから毎日冥府から無事に戻って来れていたのには、ちゃんと訳があるということを姉は知らなかった。
あたしは小学校に上がってから文字を読むことの面白さを知って、学校の図書室や街の図書館に行っていろんな本を借りるようになった。
その殆どが童話や神話だった。
その中に冥府について書かれたものがあって、それをあたしは覚えていた。
そのおかげで姉もあたしも毎日冥府から帰って来ることが出来ていたのだ。
冥府から帰る方法はいくつかあったけれど最も大切な事は、冥府の食べ物は決して口にしてはいけない、それを守ればこちらへ戻ることが出来る。
だからあたしは姉が冥府の食べ物を口にしようとした時、いつもわざとぶつかったりして姉が口にしないようにしていた。
でもある時、いつものように冥府に連れ去られたあたしたちは、別々に冥府の王に呼びつけられた。
王はあたしたち姉妹のどちらかがここに留まらない限り、いつまでもあたしたちを冥府に連れ戻すと言う。
連れ戻す、その言葉に違和感を覚えつつも勇気を出してあたしは王に訊いた。
どうしてあたしたちなのですか、と。
冥府の王は何も答えず、あたしを下がらせた。
王の元から戻ると姉は神妙な面持ちでその場に立ち尽くしていた。
そしてさも当然というように、あたしに冥府に残るようにと告げる。
あたしの言葉には聞く耳持たずで、自分の言いたいことだけ、思いだけを押し付けて、あたしから離れて冥府の散歩に行ってしまった。
冥府で姉と別行動をとるのは初めてのことだった。
そして朝。
いつものようにあたしは目を覚ました。
でも、姉は目を覚まさなかった。
姉は冥府から戻って来なかった。
姉は突然死、心臓麻痺として処理されたが、実のところ体を残しておけば姉は目覚めたかもしれない。
だって冥府に魂が留まっているだけなのだから。
でも姉の体は焼却されて残っていない。
姉はもうこちらへ戻って来ることはない。
そして姉の死んだ日から、あたしは夜に目を閉じても冥府に連れ去られることはなくなった。
両親は姉の突然すぎる死にとても悲しんでいたが、あたしが残されていたことと死の数年後に弟を身ごもったことでその悲しみは幾分か薄れたようだった。
ところで、あたしは冥府最後の日について話していないことがある。
肉体へ帰るために冥府の門前で姉を待っていると王の使いが現れて、あたしに冥府の果実をひとつ手渡して引き返していった。
あたしはもちろん、口にしなかった。
その数分後に姉が現れたかと思うと、あたしの手の中にある果実を一目散に取り上げてそのまま齧る。
口の中から吐き出させようとすれば出来たけれど、あたしはそれをしなかった。
姉はそのまま奪った果実を平らげた。
姉は冥府の王から偽りを聞かされていた。
冥府の果実を口にすれば冥府から解き放たれる、でも冥府の果実はその辺にあるわけではない。
冥府の門前に果実を持った使いを送るが、その者は妹に果実を与えるだろう。
あなたが冥府から去りたいのであれば、妹からその果実を奪って食べてしまいなさい。
あたしは冥府の王に呼び出された時、王が姉にそう告げたことを教えられていた。
王はあたしが冥府について知っていることを知っていたので、何も知らない姉に狙いを定めていたのだ。
そしてあたしにそれ教えることで、姉が食べるのを止めようと思えば止められる状況を作った。
でも、あたしは止めなかった。
王は姉を騙したが、あたしは姉を救わなかった。
何故、救わなかったか、その理由ならばいくらでもあげられる。
でもそのどれもがきっと、たったひとつのことに繋がっている。
姉が嫌いだった。
だから姉を両親から切り離すために、冥府の食べ物を口にさせて戻れないようにした。
ただそれだけのことだった。
このことは、あたしと冥府の王以外、誰も知らない。
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