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ノット/東響のマーラー5番を聴いて考えた最近のソロカーテンコールの多さ

今宵の感想

チェリビダッケは言った。

「悪いオーケストラはいない。悪い指揮者がいるだけだ」

「弘法筆を選ばず」ということわざもある。

本当だろうか?と今日のコンサートを聴いて思ってしまった。

ラヴェル:海原の小舟(管弦楽版)
ベルク:七つの初期の歌
マーラー:交響曲第5番

指揮:ジョナサン・ノット
ソプラノ:ユリア・クライター
管弦楽:東京交響楽団

前半はよかった。

ただ、隣のおっさんが冒頭から鼻息全開でずっと空気音を聞かされるはめに。

隣で扇風機回ってる感じでしたね。

コンサートって音を聴きに来てるわけですよ。
お金を払って。

不注意で音出しちゃうのは仕方ないと思うんです。
でも、音出してて何とも思わないこういう人はほんと来ないでほしい。
演奏中にしきりにパンフレットめくってたし。

演奏中に独り言言ったりスマホ見たりするのと変わらないです。
お金払ってても他の人の楽しみを阻害する権利はありません。

ラヴェルもベルクも馴染みのない曲でしたが、ラヴェルは色彩豊かというよりは淡い墨絵のような感じだったかな。

ノットの指揮姿はいつ見ても優雅でダイナミック。
見栄えのする指揮で、かっこいいです。

指揮棒の動きが滑らかな曲線で、見惚れてしまう指揮です。

その表情豊かな棒の動きから生まれるデリケートなラヴェルでした。

ベルクのこの曲もソプラノのユリア・クライターも初めて聴きましたが、聴きやすい曲ですね。
R・シュトラウスに近いかもしれません。ロマンティックです。

クライターさんはクリスティーネ・シェーファーみたいな感じ?
憂いがあって艶もある声でしたね。色にすると銀色みたいな、渋みのある大人の声でした。

声楽の曲は歌詞を確認したくなりますが、パンフを触るのは御法度です。音がするので。

パンフを読むのはコンサートの前か休憩中です。私はパンフもらい忘れたので(休憩中にもらった)、歌詞わからない状態で聴いてました😅

目玉のマーラーの5番は、、

マーラーの5番は残念な出来栄えでしたね。

先ごろ「巨人」がCD化されたので、今日のライブもCD化されるんだと思います。録音マイクたくさん立ってたので。

でも正直、このままじゃCDにならないよなぁと思ってしまいました。

冒頭のトランペットソロからヘロヘロで、アマオケか?と思いました。

プロオケでこんな大事なとこも決められないなんて大丈夫か?

日本のオケってそんなにレベル低いんですか??

東響はノットのシベリウス5番、ウルバンスキのブラームス4番、ブランギエの「火の鳥」と聴いてきて、今日の出来が一番悪く感じました。

トランペットは最後まで不安定でしたし、オケ全体にうねるような、異世界に連れていくような突出したエネルギーが乏しかった。

ノットが気の毒でした。

私は「ノットと高関健は裏切らない」が持論で、二人とも手抜きの指揮を見たことがありません。

今日のノットは振ってて虚しかったのではないかなぁ。

音楽監督だし、長年コンビ組んでるわけですよね?

一回きりの客演指揮者ならともかく、「ワルター、カラヤン、アバドらを抜いてパリのクラシック雑誌が一位に選んだ」という触れ込みのノットの5番がこんな演奏では、、

音楽監督って人事権あるんでしたっけ?(昔はあったはず)

海外だったら首席がこれでは交代させられそうですが、日本だと人事権ないんだろうなぁ。

そうすると「手持ちの牌」で演奏するしかないわけですよね?

いくらいい指揮者が来ても、オケにある程度の技術がないと名演奏は期待できません。

都響もマケラのときとアンドリュー・リットンのときでは演奏技術が雲泥の差だったので(表現力とは別の話)、緊張感の問題なのかも。

音楽監督のコンサートにしてはあまりに緊張感がないと言わざるをえない(緊張しすぎたともとれるが、、)

昔は「気持ちがこもってれば、ちょっとミスっても平気」って思ってましたが、冒頭からこれでは白けます。

日本のオケは金管が弱すぎる。金管の部分だけ期待値を下げる聴き方になってしまいます。

ノットの表現したいことが手兵にもかかわらずほとんどできてないマーラーと思って聴いてましたが、終わるなり聴衆は間髪を入れず大拍手だったのでまたもや白けました。

いや、受け止め方は人それぞれなんでいいんですけど、最近は何でもかんでも拍手しすぎです。
どうせソロカーテンコールもやったんでしょ?

拍手がいまひとつ盛り上がらなかった国内オーケストラのコンサートあるんですかね。
どれ行っても最近はこんな感じです。違いがなくなってきてます。

隣の人(鼻息男とは逆)も拍手したくなさそうなそぶりでした。同感でした。
拍手しないのはマナー違反とは思いません。拍手喝采がマナーと思ってやってる人が多いのでしょうか?

団員が入場するときの拍手も昔はありませんでしたし、客層が変わってきてるのですかね。

マーラーの5番、比較

最近立て続けにマーラーの5番を聴きました。カーチュン・ウォン/日本フィルとエッシェンバッハ/N響。

エッシェンバッハ/N響は演奏精度が極めて高いものの、ライブ感に乏しくCDで聴いてるような先の見える演奏でした。

カーチュン・ウォンはひとつひとつのフレーズの味つけが濃厚で、聴く者を飽きさせません。
初めてこの曲を聴くようなスリルを味わわせてくれました(人によっては癖が強すぎると感じたでしょう)。

ノットの5番は変な癖がなく、オーソドックスなテンポやフレージングながら、エッシェンバッハのような人工感がありません。
この人の美質は常に棒の先から音楽が生まれてくるところ。

リハーサルでこういう音楽を描きたいとオケに伝えて、本番で団員がノットの指揮を見ながら、そのときその瞬間の感情をぶつけるから生の音楽が生まれる。
エッシェンバッハのときはコンサートの前に出来上がっていた音楽を「はい、どうぞ」って感じでした。

トランペットの人、たまたま不調だったのかもしれませんが、それなら聴衆は大絶賛でいいのですか?

東響の定期会員はこれで満足なんでしょうか?

力を持った「バカの声」

昔は音楽に限らず、映画や小説でも耳や目の肥えた受け手がいました。

私がそうだとは言いませんけど、そういう「うるさ型」の鑑賞者が芸術家を育てていた側面は大きいです。

今は映画評論にしても音楽評論にしても、観客も読まなければ作り手も読まないのかもしれない。

素人のユーザーレビューが溢れすぎです(これもだけど😅)

昔は素人の感想なんて力を持ってなかったのに、今は「意味わかんなくてつまんなかった」とTwitterに書かれると集客に影響するので、どんどん映画は説明過多になってるのだそうです。

私は映画見る本数減ってしまいましたが、最近のドラマが説明過多なのはよく感じます。

平たく言えば、人気を出すためにバカに合わせてるのですね。

文学でも、芥川賞作品って純文学だから、本屋大賞の作品とは違って実験性や新奇性が評価されるんです。

なのにAmazonレビューで「意味わかんなくてつまんなかった」とバカに書かれてしまう。

昔はバカの声なんて相手にされなかったんです。「ゴダールの映画が意味わかんない」とか言ってたら映画通にバカにされるので、バカにされたくない一心でいろいろ映画見て勉強したんです。評論読んだりもして(私はいまだにわかんないけど😅)

今はバカに発言権があって、Amazonみたいな目につく場所で堂々と発信できてしまう。
これも問題かなと思います。

現代は口コミが力を持ちすぎなのです。飲食店が食べログの不当採点システムを訴えた裁判がありましたが、それは集客にもろに影響するからです。

バカの感想が力を持ち始めてから、芸術の舵取りは難しくなりましたね。

収益度外視でバカを無視して己の芸術性を貫くか、バカに擦り寄ってわかりやすい作品を作るか。

難しいのは、わかりやすく作れば必ずヒットするわけでもないところ。
ヒットの鉄則なんてないでしょうから。

毎回ソロカーテンコールでいいのか?

クラシックは観客受けを狙った演奏というのはあまりないように思いますが、何を演奏してもソロカーテンコールというのは白けます。

以前はどんなコンサートでも最後まで座ってましたが、最近はつまらなかったら拍手の途中で帰ってます。
自分と同じように途中退出する人が増えてるように感じるので、ソロカーテンコールの安売りにうんざりしてる方は案外多いのかもしれません。

奥さんが作った手料理を何でもおいしいおいしいと言って食べるのとは違います😅

いい演奏は拍手喝采。不出来な演奏にはブーイングまではいかなくてもいつもより拍手控えめでもいいと思います。

そうじゃないと、本当に素晴らしい演奏のときと感動表現の差がなくなるじゃないですか。

途中退席するクラシックファンは本当に素晴らしい演奏のときにブラヴォー!って叫びたい人たちなんだと思います。

今日のマーラーもマケラのマーラーやショスタコーヴィチも私の好みではなく、感動した方も大勢いたのでしょうが、最近のコンサートが拍手の安売りなのは以前から長くコンサート通いしてる方ならわかるはずです。

拍手の安売りはやめてほしい。
毎回のソロカーテンコールも。

あなたがどんな音楽にも「平等に」賛辞を贈りたいと思ってるのでなければ。

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