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クラシック音楽版の「美味しんぼ」が見たい

「美味しんぼ」の再放送がtvkで始まった。

私はこの「食をめぐる蘊蓄アニメ(漫画)」が大好きである。

といっても、最初のころのエピソードしか知らないのだが……😅

今日見た「士郎対父・雄山」は以前も見たことがある。

前半の話は、東西新聞が主催する美術展に絵を貸してもらおうとルノワールの作品を所有する京極氏を幹部たちが料亭でもてなすも、旬ではないものばかり出てきて京極氏はカンカンになって帰ってしまう。

ご機嫌を直してもらうために部長から指令を受けた山岡がホームレスの辰さんに最近一番うまい料亭「岡星」を教えてもらい、そこでシンプルな白飯・味噌汁・丸干しを食べた京極氏はその味の完成度にご満悦、絵を貸してくれるという話。

大好きなエピソードなのだが(特に酒瓶を持って辰さんを訪ねるくだり。教えを乞うなら相手が誰でも土産を持っていくのが礼儀)、いまの若い人はこの作品を見て面白いと感じるだろうか? と疑問に思ってしまった。

というのも、令和の感覚からすると、

・駅の構内で、ホームレスと一緒に宴会をする
→はた迷惑

・ホームレスから勧められた料亭の余り物を栗田さんが食べる
→不潔。食べたくない

そもそもホームレスと会話すること自体がいまの日本ではファンタジーになってしまっている。

私はペルーのレストランでご飯を食べていたとき、赤ちゃんを背負ったお母さん(どこか身体障害があったかもしれない)が物乞いをしにテーブルを回ってきたので、お金を恵んだことがあったし(同席していた日本人旅行者の女が「しなくていい!つけあがるから!」と叫んだのは今でも忘れられない)、ビッグイシューは10回以上は買っている。ホームレス支援の「てのはし」の活動にも2回参加して、おにぎり配りや素麺の配給をしたこともある。

私みたいなのは例外で、ホームレスと話したり接したりしたことのない人が大半だろう(中高年含めて)。
駅の構内でホームレスと宴会するなんて、異世界転生以上に非現実的に違いない😅

「旬の食べ物ではない」という理由で接待から帰ってしまうのも「自分勝手なおっさん」と見なされかねない。

この話は「食べ物は旬が大事。高い料亭だからいいのではなく、ブランドに惑わされずに食の基本に立ち返るのが大切」ということを教えてくれるのだが、それ以外のツッコミどころが多すぎる気がする(私は違和感ないけど)。

後半の話では、海原雄山が出てきて、士郎と「天ぷら勝負」をする。

東西新聞の部長が半日で都内の名だたる天ぷら職人を10人近く集めてきたのもびっくりだが(みんな自分の店があるだろうによく来たね。高いお金払ったのだろうか? 経費でよく落ちるね😅)、雄山が満足のいくレベルの職人なんかそんなにいないはずだから、面識ないのが不自然😅

天ぷらを揚げる音のカセットテープをわざわざ持ってきた雄山には驚かされる😂

まあ、こちらの話も「天ぷらは油から上げるタイミングが大事。腕のいい職人は耳もいい」ということを教えてくれるのだが、最近はこうした蘊蓄が敬遠されるようになってきたのではないか。

食べ物が出てくるバラエティ番組がやたら増えたが(視聴者の共通の関心が食べ物くらいしかないのだろう。食べ物ネタならクレーム要素も少なそうだし)、食に対する蘊蓄は乏しい。
食べて「美味し〜!」だけのやりとりである。「孤独のグルメ」だってそう(あれは最初から一貫してるからいい)。

「どこそこの店の○○は美味しい」という情報だけの垂れ流しで、「食べ物は旬が大事」といったことはまったく教えてくれないのである。

「美味しんぼ」の面白さは、教養番組に似て、見た後にちょっぴり賢くなれることかもしれない。

なるほど! そうなのか! という驚きがある。

とはいえ、それも令和の視点から見れば当たり前の情報だったりするわけだが、それでも「蘊蓄の大切さ」を再確認させてくれる。

翻ってクラシック音楽も、蘊蓄は大事ではないだろうか。

クラシックがオタクの文脈で語られることが減り、素人っぽい「素朴な」感想が好まれるようになった。

このブログが「素朴」ではないと言いたいわけではないが、推しを熱烈に語るような文体がXには溢れている。

蘊蓄的な視点を感じることが少ない。

楽典や音楽家の知識でもいいだろう。読んだ人にクラシックについて改めて考えさせる文章が少ない気がする。

そこにあるのは、目の前の音楽(食べ物)を「感動した〜(美味しい〜)」と語る姿勢である。

私はクラシックにおいても「美味しんぼ」的なアプローチがあってもいいと思うのだ。

『レコード芸術』は、クラシックを「語りたがる」オタク文化の象徴だった。

「名盤ランキング」があったり、「カラヤンのベートーヴェンはダメ」とか、それが極端な内容であっても、そういった言説が飛び交わされることによって、ある種の面白さが醸成されていた。

いまは「みんなちがって、みんないい」になってしまった。
他の聴き手と違う見解を提示しようものなら、他者批判と見なされるのだ。

かくして音楽観の違いからドラマが生まれることはなくなり、批評精神のなくなったクラシックオタクはクラシックファンへと変貌した。

私はクラシック版の「美味しんぼ」を作ったら面白いと思う。

偉大な音楽評論家である父に反発するクラオタの息子。

究極のクラシックVS至高のクラシック。

最高にバカバカしくないだろうか。

そうしたバカバカしさと俗っぽさに満ちたクラオタ文化を私は懐かしく思うのである。

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