労働者達

あゆみ野クリニックには心療内科があります。これは私が設置したものではありません。癌で急逝された前院長が掲げていたのです。私はここを自分のクリニックにしたとき、自分は心身医学の素養はないから、心療内科は止めようと思いました。ところが大家さんが「これ残してくれ」というのです。それで、渋々残しました。



ところが残したら、患者さんがだんだんだんだん増えてしまいました。増えてしまったっていうのはおかしな言い方ですが、心療内科の患者さんはものすごく時間と手間暇、それに社会知識と人生経験がいるのです。それなのに、何か検査するわけじゃないから(大抵の患者さんは自分の症状についてあっちこっちで検査を受けて、異常は無いと言われて心療内科に来ます)ペイしない。経営にならないのです。



お前の医療は算術かと聞かれたら、「私は開業医ですから、仁術と算術のバランスを取らなければ立ちゆきません」と答えています。



さてそれで、心療内科にどんどん患者さんが集まってくると言いましたが、実はその8割が労働問題なのです。なんでそうなっちゃったんだか私にも分かりません。ともかく、上司のパワハラとか同僚の心ない言葉に傷ついたとか、そもそも労働環境がハードすぎて潰れちゃったとか、まあそういう人々です。



そういう人たちは、ある朝出勤しようとすると、突然心臓がバクバクして冷や汗が出て、目の前がグラングラン揺れて頭痛吐き気が起きます。心因反応と言います。要するに体が全身で「無理だー!」と叫んでるんです。



いくつか印象に残っている症例をお話しします。無論個人情報は出しません。



症例1.

高卒で就職した男の子。



上記のような心因反応を起こして、真っ青な顔で診察室に入ってきました。高校を出て就職したけれど、全然仕事が覚えられない。何も手につかない。自分はもうダメだ・・・。



まあ、高卒出たての子供ですから、「自分はもうダメだ」はよく言います。一通りその人の話を聞きました。どんな仕事の会社で、その人はどういう作業をやっていて、1日何時間ぐらい働いているのか等々。



「それで、あなたは朝8時半に出社するんですよね?帰宅は何時頃?」



「毎日0時には帰れます」



「0時って夜中の0時?」



「はいそうです」。



その子に何をどう説明したらよいものかしばらく考えましたが、私は



「スマホを出してご覧」と言ったのです。



「グーグルアプリあるよね。残業時間の上限」って入力して検索してご覧。



その子はそうしました。



残業時間の上限は何時間って書いてあるかな?」



「原則として月45時間、年360時間って書いてあります」



「そうだね。君は朝8時半に出社して、夜中の0時に帰るわけだ。おそらく正式な終業時間は夕方5時半だろう。そうすると、毎日6.5時間残業しているわけだ。平日は毎日夜の0時までなんだよね?そうすると平日週5日出勤して一ヶ月4週とすると20日。6.5時間の20倍は?」



その子はドギマギしていたので、「スマホに計算機アプリあるよ」と教えて上げました。それでその子は急いでかけ算したわけです。



月に130時間の残業でした。



「さっきグーグルで、残業時間の上限は何時間となっていたっけ?」



「えーと。月に45時間でした」



「そう。でも君は130時間残業させられている。そういう会社はブラックと言わない。違法って言うんだ」。




こう言う人の扱いは、最近ワンパターンでコツを掴みました。まず「適応障害・心因反応」という病名を付け、「上記により本日から30日間の休業及び通院加療を要する」と診断書を書きます。そして本人には「会社の総務課か人事課に頼んで傷病手当の申請書類を貰っておいで」という。そうやって3か月ほど休業させて、まずはメンタル落ち着かせた後、次の就職先を探させるのです。休職と言っても、元の職場に復職させるつもりなんか毛頭ないです。まずはその人の心を落ち着かせて、就職活動させるための時間稼ぎです。



そういう人は大抵、「会社に何か頼め」と言われると尻込みします。だから私は「大丈夫だよ。傷病手当というのは病気で休職するため収入が入らないとき、給料の6割相当のお金が出るんだが、その金は会社が出すんじゃない。あなたが給料から毎月天引きされている保険から出るんだから、傷病手当の申請を拒む会社はないんだ」と説明するのです。



こういう若い人は、残業時間の上限を知らないばかりか、労働基準法という法律の名前すら聞いたことが無い人がほとんどです。外来で労基法を一から説明は出来ませんから、「労基法というのは経営者が人を雇うときに守らなければならない規則が定められている法律だ。例えば残業時間の上限を守らなければ6か月以下の懲役または30万円以下の罰金を科されるんだよ」と説明するわけ。



こう言う人を労基署とか弁護士に廻しても、何しろ高校出たてですから、本人が戦えない。だから逃がして上げるんです。



症例2.

オーナー店長が夜逃げしちゃったケース



患者さんは40代女性。例によって心因反応を起こして飛び込んできました。話を聞くと、とあるフランチャイズ店で働いていると。その人はかなりの技術を持っていて、オーナー店長の下で職場のリーダー格なんだそうです。



ところがある朝、オーナー店長が夜逃げしちゃった。文字通り、本当に夜逃げしたんです。朝店長が出勤してこない。スマホもラインも通じない。店長の家に行ってみたらもぬけの殻。



まあ、フランチャイズの本部がぎりぎり締め上げていたんでしょうね。店長たまりかねて逃げちゃった。そうしたら、フランチャイズ本部の人間が乗り込んできて、その女性に「これからはあなたがこの店の責任者だ」と言い放ったのです。店の権利を買わないかとも言われましたがその額数百万。とてもその人が買える額ではない。しかもその人はその店でリーダー格だったのですから、そのフランチャイズがどれほどあくどいか横で見て知っていました。



追い詰められて心因反応になったわけ。



「ふうん、なるほどね。あんたそんな本部の人間なんか無視していいよ。サッサと辞めな」。



私、こう言うときはわざと雑駁な物言いをします。相手の心をぐいっと奪ってしまう必要があるからです。



「あのね、その店長はオーナーだったんでしょ。オーナーってことは経営者だ。経営者が夜逃げしちゃったんだからその店はその時点で終わってんだ。あんた従業員だろ。従業員ってのは、経営の責任なんか負う義務無いさ。経営に責任を持つのは経営者だけだ。だけどその経営者である店長が夜逃げしちゃったんだから、その店はそこでお終い。本部の連中はあんたを欺してるんだ。それだけだよ」。



その人は40も後半を過ぎて、それなりに世間を見てきた方でしたから、私にそう言われてハッと目が覚めたようです。



「そうでした。そうですよね。私何考えてたんだろう」。



後日その方は当院にまったく別件で見えたので、「どうなりました?」と聞いたらあの後すぐ退職届を出し、今は別の会社で働いていますと。



40も後半となるとなかなか転職も難しくなるのですが、その人は手に職がありましたから、さっさと転職したのです。



症例3

会社の方が法律を知らなかった例



ある方が社長からパワハラを受けたと言ってやってきました。色々話を聞いたのですが、どうもかなり込み入った案件のようでした。患者さんの話を聞きながら、私は心中「うーん。このケースはどうも、本人が言わない色々な事情があるな」と思っていましたが、ある日患者さんが「社長にいきなり退職願の書式を突きつけられて、これにサインしろと言われた」と言ってきたのです。



これはさすがに、穏やかではありません。私は会社に電話して、「カルテに本人が社長さんの言動に傷ついて精神的障害を受けたと記載してあるから、これは傷害罪に当たる可能性がありますよ」と忠告したのです。



そうしたらその会社の部長さんが尋ねてきて、実はこれこれこう言うわけだと。まあ、会社には会社の言い分があったわけです。そりゃあまあ、従業員と会社が揉めるわけですから、常に双方にそれぞれ言い分があります。



「そうですか。しかしこの一件を労基署なり裁判なりにすれば、いずれにしても私のカルテが証拠採用されます。そうすると、御社にとっては結構不利じゃないかと思いますよ」と私は穏やかに言いました。それで部長が言った言葉が



「でもそのカルテが間違いだったという可能性もありますよね」。



思わずあっけにとられました。そうかこの部長さん、分かってないんだ。



私は薄笑いを浮かべながら、淡々とこう答えました。



「なるほど。医者の私が公文書であるカルテに不実記載をしたと主張して争われるという事ですか。しかしそうするとこの一件は、この患者さんと御社との争いだけでなく、私と御社の間の争いになってしまいます。しかしまあ、医者のカルテが間違いだと主張して争うというのはどうなのかというのは、顧問弁護士さんによくお確かめになった方が良いと思います」。



私は終始穏やかに薄ら笑いを浮かべながらそう言ったのです。



なんなんですかねえ、私の仕事は。

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