書評「誰でも分かる精神医学入門」、東徹著

東先生(ひがし先生です。あずま先生ではない)のこの本は、これから数回に分けて論じます。精神医学入門というタイトルですが、冒頭から読んでいくと、東先生が「この用語の由来がよく分からない」と首をひねっている用語のかなりの部分が中医学(中国伝統医学)や日本の漢方医学の用語を元にしていると気がつきます。



まず本のタイトルでもある「精神医学」の「精神」、そして「心(こころ)、さらに「神経」。精神科医である東先生が「どうも良く分からない」と書かれていますが、これらは全部西洋医学の概念を訳す時に漢方医学の用語を当てはめたから今時の精神科医には「分からない」となるのです。



「精神」。

精というのは中医学では「何か根源的なもの」を指します。そもそも中医学では体内に3つのものが流れる。気、血、津液(しんえき)だと言います。血はめんどくさい議論は無しにしたら血液と思って良いです。津液も昔インド医学から中国に伝わった概念で云々というのを抜きにしたら「体液」と看做してもまあ、良いです。まさに「精神的症状」の場合にはそれでは通じないことが出てくるんですが。



それで。血とか津液(体液)は体内を巡ります。これは西洋医学の医者でも異論はありません。しかし血液も体液も物質なので、ほっといたからと言って巡るわけではないです。採血した血液が採血管の中で勝手に踊り出したら困ります。つまり血とか津液という物質が体内を巡るには、「気」というエネルギーが必要なのです。



気?なんだか怪しげな、と言う人は、自分が日頃お使いになる単語を思い出せば良いです。天気、電気、空気etc…。みなさん「気」という言葉を使っています。では気とは何かというと、「働き、作用はあるが姿形は無いもの(Things having function but no form」」です。電気はあります。空気もあります。でも電気の形とか、空気の形とか言うものはありません。姿形がなくても存在するもの。それが「作用、機能」によって「ある」と分かるもの。それが「気」です。



さて精神の「精」ですが、これは気の中でも根本的なものを刺します。勿論医学で論じているので、天気の話はしていないのですが、「人体の気」を「生命エネルギー」と仮に捉えた時、その根本になるものが「精気」です。



では「神(しん)」とはなにか。それは思考、分析、総合、帰納、判断、処理など、非常に高度な意識や思惟活動のことです。ざっくり大脳皮質がやっている機能です。



つまり「精神」とは、神(しん)と呼ばれる高度な意識や思惟活動を行う根本の気だ、と言うことです。だから精神が乱れると思考、分析、総合、帰納、判断、処理などがうまく行かなくなるのです。



「神経」、この言葉も中医学や漢方に由来すると言ったら神経内科医は怒り出すでしょう。神経内科医は理屈っぽくて「ウチは精神科みたいな怪しげな所じゃない。きちんとした神経と筋肉の疾患を扱うんだ」という所ですから。



ところがその、「神経」というのはまさに「神(しん)の通り道」です。思考、分析、総合、帰納、判断、処理などを掌るものが神(しん)。その神を通る経絡(けいらく)が「神経」。神経内科医はさぞ面白くないでしょうが、言葉の由来はそういうことです。



では「心(こころ)」とはなにか。心臓と言ったら血液循環のポンプだ、誰もこれを疑いません。しかし夏目漱石の名作「こころ」は心筋梗塞や心不全の話だというのは、誰一人考えないでしょう。同じ「心」という漢字を当てるのに、「心臓」と「こころ」は違うわけです。精神科医のテリトリーは「心(こころ)」であって「心臓」ではありません。心臓を扱うのは内科の中の循環器科であります。



ではどうして心臓と心に同じ心という字が当てられているの?それは中医学の「五臓六腑」という概念で、考える、感じるというのは「心臓」の働きだと看做されていたからです。



それは何も中国人の専売特許ではありません。シェークスピアの劇にも「真心」というのを表現する時に自分の心臓の辺りを指し示す場面が出てきます。「私が今言っていることは嘘偽りではありません。心の底からそう思っています」という時に、自分の頭をさす人って、現代でもまずいません。大抵は胸を指すはずです。そこに西洋、東洋の差は無いです。つまり昔から「心(こころ)」というものは心臓に宿ると考えられていたのです。中医学では今でも「心は神を主(つかさど)る」、つまり五臓(心、肝、脾、肺、腎)の内の心臓というものは先ほど述べた思考、分析、総合、帰納、判断、処理など、非常に高度な意識や思惟活動を主っているのだ、となっているのです。



こう言う古典医学の概念が何故現代精神科とか神経科とかに使われているのか。それは、江戸後期から明治初頭にかけて一生懸命西洋医学を輸入した人々が、みな伝統医学や中国古典の知識に長けていたからです。ターヘルアナトミアを翻訳した杉田玄白なんて人は一般に「蘭学を日本に紹介した人」としてしか知られていませんが、あの人は「吉益東洞(よしますとうどう)」という有名な江戸時代の漢方医について「彼は一種の豪傑ではあるが、傷寒論などの古典を好き勝手に作り替え、捏造している」と批判しています。杉田玄白は傷寒論を読んでいたわけです。つまり江戸後期から明治初頭に西洋医学を日本に紹介した人々というのは、素養として中国古典の知識をちゃんと持っていたので、ネルヴスというのを「神経」、神(しん)がとおる経絡、と訳したのです。精神もそう。神(しん)の根本をなすなにものかだから神の精、精神です。



私のあゆみ野クリニックは基本漢方内科、心療内科、老年内科、一般内科ですけど、心療内科に来る患者と精神科に受診する患者はかなりオーバーラップします。それで実はひっそり「精神科」も届け出ています。



実はそれはお金がメインでして、同じ患者に同じ診療をしても心療内科だと心身医学指導料(初診1100円、最新800円)しか算定出来ないのに対し、精神科を正式に標榜すると通院精神療法初診5400円(60分を超えた時)、30分を超えた時3900円、30分未満3150円が算定出来ます。再診でも30分以上診察すると3900円、30分未満でも3150円です。いくら何でもその人の生い立ちから始まって今の労働勤務状況まで延々と話を聞いて心身医学指導料1100円とか再診800円では診療所が経営出来ないので、精神科を標榜したのです。



しかし実際の所、心療内科に来る患者さんと精神科の患者さんは明確に区別出来ません。なんらかの仕事や生活のストレスで動悸、めまい、食欲不振などの身体症状があれば心療内科だと言いますが、では仕事のストレスでそういう症状を呈する人が鬱ではないかというと、ほぼ100%鬱状態です。心身症で不眠ですという人に鬱テストをすると、ほぼ全員が「鬱状態」に該当します。




もちろん東先生の言う「内因性鬱」、つまり環境要因とは基本的に関係なくまったく良く原因が分からないで生じる欝病とか、統合失調症とかは明らかに精神科の範疇です。心療内科ではありません。しかしそれ以外はほとんど重なるのが現状です。



とまあ長々と述べましたが、まだ枕の所しか読んでいません。読み進んだらまた何か書きます。

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