【娯楽の塵】COFFEEの類
1971年
ゴミ戦争宣言(美濃部東京都知事)
誰と誰が何のために戦っていると宣言するのか。ゴミを奪い合う戦争ではなく、ゴミを放棄し合う戦争か。ゴミを擬人化して、戦う相手にしているのか。
ゴミはゴミ。戦争をふっかける相手ではないし、スポーツでもない。そしてアートでもない。事実をすり替えてはいけない。自分たちが消費した物の残骸が毎日、毎日、燃やされ、燃やしきれない物は埋められ、その埋め立て地が増やされ続ける事実。それに加担している自分。
その事実を承知した上で、生きるということを続けたい。
不要なものが生まれる理由はどこにあるのか。不要なものが生まれる結果が目に見えていても、何かを得るために進める理由はどこにあるのか。それを不要だと決めるのが人間ならば、人はゴミでありゴミは人なのか。
ゴミはゴミであったはずが、私もゴミになってしまう。それでも、考えることは出来る。私達が戦う相手は考えることをリスクと捉える怠け者の脳なのじゃないか。
大量消費が大量廃棄を生むのなら、このネットに溢れ増え続ける文字はどうか。情報消費社会の真っ只中で誰の文字が不要で誰の文字が不要でないのか。すべて私達の記憶や心に残り、栄養となる言葉か、人を伝って生き続ける言葉か、誰かには役立たずでも誰かには宝の言葉なのか。書いた当人にさえ忘れられた言葉の行方は埋め立てられたその脳だけが知っている。
ゴミが無ければ生まれなかった言葉の不完全な表現力に喘ぎながら、続けることも悪くはないと是非の思考を止めようとする自分がいる。ゴミを出さない暮らしは途方もなく難しい。