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【娯楽の塵】炭酸の類

清涼飲料水用スチール缶(果汁炭酸飲料)
 
推定投棄日 1969年ある日

1969年
東大安田講堂事件

 半世紀を超えて人は、同じ空虚を抱え、同じ挫折を抱え、同じ怒りを抱える。例えば、その講堂にいた誰かが熱っぽく語る理想があったとして、その理想と変わらぬ想いを吐露する誰かが今日きっと、何処かにいるはずだと思える。あの頃の学生はああで今の学生がどうとか、時代や世代なんて単純な一言で解釈したくはない。

 守るための「暴力」は守るための「言葉の暴力」に変わり、あと半世紀過ぎたら「思考の暴力」にでも変わって行きそうだ。そして自分たちで作り上げた社会にその思考も制限される。また同じ空虚と同じ挫折と同じ怒りを抱える人々が現れる。理想はいつまでも存在して、その理想を追う人も必ずいる。

 発想の解放をみんなで抑え込んで、しぼんでいく芸術の塗り直しをそれほどいいとも思っていない調和の中で終える。とりあえず格好良くはなったと。格好良く終えれたと。抜かり無く。

 成功のモデルを描いてそれが格好良いと目指しているなら、そんなに格好悪い事はない。新しいことも無いし、新しくなければ私(あなた)という必要も無くなる。必要性の無くなった個が集まり、集団の力で何かを勝ち取る事の現実味が消えた今、それでも集団の力を蘇らせんと奮闘する個は、その様が確固たる技術を併せ持つ時、芸術的ですらあると観える事もあるんじゃないかと期待したりする。

 想像する
私は娯楽の塵に囲まれた建物の中で籠城を決め込む。非現実的な日常が日常に変わるまで。打開は内からか外からか。激しく降る雨が激しく缶を打ち、その優しく美しい音に耳を預ける。これが聞けなくなるのは寂しいかもしれない。


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