第1回共同親権訴訟振り返り
2020年3月12日 共同親権訴訟 第一回期日であった
感染症拡大予防策として厳戒体制な空気の中、特等席にて、涙あふれる原告の方々の想いあふれるスピーチを聞き、辛くも決して失われない親心が伝わってくる
バーの向こうで涙する傍聴されている方の姿が目に入り、また込み上げてくるものがある
ポーカーフェースな黒服に包まれた裁判官にも、心に届いているといいなー
緊張もされただろうけど、原告の方々は立派な大役を果たされて、ついに、共同親権訴訟は、スタートした!!
見せ方にこだわる原告の方々の努力あってのことと思う。
その後の、待ったなし!共同親権の院内集会も盛会であった。
代理人からの報告の時間こそ前に座ったものの、ほとんど聞き手の立場で、この国の惨い実情を改めて言葉にすることで、本当に酷すぎる由々しき事態を感じる。縁あって、議員さんに立ち寄っていただくミラクルがあり、請願書を託すシーンは見事に盛り上がった。そして、かねてからファンである橘氏の講演!共同親権と戸籍について。踏まない方がいい、そこにいっちゃう?
ヒヤヒヤハラハラしたけども、夫婦別姓のことや、同性婚の話題もあって、そして、背景事情として知っておくべきだし、かといって深入りしない方がいいという着地点まで、全て同感!!
先月の、いろいろな家族のカタチフォーラムのコンセプトにも重なる
闇深さを自覚のもと、言葉を濁したのだけど、共同親権を阻むものへの言及はどんたくセミナーでもチラリ
嘉田議員とお近づきになれたのも嬉しく、スコットさんのスピーチは盛り上がっていた!!あれぐらい研ぎ澄ましてもいいのかもしれない。日本人は優しすぎるのだと思う。自分の権利を主張するのも苦手だ。親として、子どものことになれば言いやすいのだろう。子どもの権利由来の共同養育(責任)に傾いたことは、それ自体意味のある大切なことである一方で、問題解決を先送りにしてしまったとも思う。
自分の権利は自分で守るしかない(幼ければ親が守ってくれるという確信があってこそ安心できる)。
それを人権教育がある国であれば自然に身につけていく。ニコニコしていれば、誰かの恩情によって付与されるものに甘んじていたら、その誰かの気まぐれによっていとも簡単に奪われてしまう。そして、それを取り戻す手段すら、身に着けていなかったことを知ったところで、溺れて初めて泳ぎ方を知っておけばよかったと思っても後悔しかないのと同じであろう。
これは日本人に人権意識を目覚めさせるアクションなのだと思う。
自分の権利の守り方を、親が身に着ける。そして、ようやく、子どもに教えることができる。辛いとき、絶望したとき、それでも人生を続けるという姿勢を伝えていく。何ができるのか。いろいろなアクションがあるということ。ただ生きる。それだけでも、とてもとても意味のあること。それは、命だから。命を与えられたものとして、生きているということ、ただそれだけで大切な個人は尊重されるものであること。それが当たり前であること。
ジンケンキョウイクという教科書で学習させられる他人事の問題ではなく、自分事として起こることから学ぶことがある。世界の広さを知るということ。そうやってようやく人権を自分と関係のあることなのだと身に沁みるのかもしれない。
人権としてのアプローチ
それは、責任面の意味に寄っているのだと最近整理できた共同養育では足りない、共同親権の意義なのだとたどり着く。
親の権利を訴えること、それが守られる社会に整備することが、大人になる未来が待っている子どもにとっても利益になる。遠慮なく、共同親権を求めていこう。父と母が親として対等な地位を確立すること、それが、真の意味での男女平等へと導きうるのである。
昨日の発言場面は限られていたけども、実はよくつぶやいていて、二つのブログに掲載いただいていた。
折しも、共同親権を考える上で、見過ごせない、周辺にある悲劇について発信いただく記事も公開されていた
共同親権が止まらない
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