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憲法を思う日

5月3日は憲法記念日

1947年5月3日より、日本国憲法が施行されたからという

憲法の規定範囲は多岐にわたるが、注目は、家族のようだ

嫡出子差別、夫婦別姓、同性婚、そして、単独親権制の問題・・・

憲法の問題は様々あるが、とりわけ家族のあり方については、国民全般に影響を及ぼす重大なテーマだろう

理想としかし、誰にとっても窮屈に感じずに済む、ニュートラルな家族法制が求められる

どうも、改憲論は落ち着いたようだが、かつて見た草案はあまりにも驚くべきものであった

一瞬、耳障りはいい

しかし、家族というのは理想でも、義務でもなく、生まれたときにはすでにあるものではあるけども、共に過ごしたいと想い合える奇跡のようなご縁のあるみんなでお互いに心地よいカタチで共に暮すという生活そのもの

夫婦別姓、同性婚、嫡出子さまざまなアプローチがあるが、要は単独親権制を根幹とする法律婚の尊重がそこにある

法律婚=異性間同姓夫婦のみ共同親権により、協力して子育てをする家族観

である

ただし、これは理想を掲げているにすぎない、といってうまく逃げている

同性間で家族として過ごしたいのであれば、それは禁止されていない

別姓家族として過ごしたいのであれば、それは禁止されていない

単独親権者と非親権者で協力して子育てをすることも、禁止されていない

だから、何も自由を奪っていないという

それでいいのか?

私が、かつて、婚姻届を提出したときは、民法900条4号但し書き前段の規定が残っていた

法までが差別している(しかも劣位に)非嫡出子を子にさせるわけにはいかないという想いが、法律をかじるロースクール生ながらも(まあまだ全く何者にも成し遂げていない弱者としてこだわりを放棄したともいえる)、差別に闘うよりも、差別を受け入れていたもの「子どものために

その分、通称使用としての別姓婚の暮らしにチャレンジしたのが、14年前ということか!!まさか、今のように、訴訟が続き、議論が湧くとは思っていなかった

すでに、一通りの論点は学び、じゃあ、別姓婚で暮らすだけだった

ロースクールという環境においてはそれは楽だったし、司法試験も「別姓=通称使用」で受験が可能だった(しかし、戸籍の添付という煩わしい手間がかかった)

それでも、周りはほとんどが当然のように女性が改姓していったし(友人には珍しく妻氏婚を選んだケースがあった。いろいろあったようだが、まあ本人らはそれでよかったようだ。)、しかし、別姓で生きる、親子別姓であるとして名乗ることはまず強い力があった

あまり不愉快な思いを日常においてすることはなかった反面、やっぱり、異常なことをしているらしく、近い家族に「異常」と罵られ?、脆弱な家族だった

それが離婚の全てとは思わないけども、家族は続かなかった

今ほど、社会全体が夫婦別姓について知っていたら、異常とは言われなかっただろうか?

それはわからない

社会全体の問題と、いざ、個別具体的な当事者としてそれを選ぶときの問題はイコールではない

夫婦別姓を選択できることは、それが他人事である限り否定しない、という層がたしかに増えてはいるのだろうけど、じゃあ、実際、別姓婚を実践するのか、娘や息子がそれを選ぶこと、孫がそうすること、兄弟姉妹がそうすること、友人の選択、、、身近なところを受け入れられるのだろうか

初春の逃げ恥スペシャルドラマにおいても、妊娠判明とともに婚姻届を提出することが描かれているのである

それまで、事実婚として夫婦らしさは守られていたにもかかわらず、である

事実婚を続けられず、婚姻届の提出を促すだけの力が、単独親権制は持っている

それゆえ、夫婦別姓をするにも、どうしても通称のカタチにせざるを得ない

その実態を踏まえて、通称使用に法的根拠があれば解決されるのではないか、というレベルで対応しようとするのであれば、はなはだ浅はかであろう

そんな小手先の別姓制度では足りないのである

ファミリーネームというものが果たして必要なのかもわからない

構成員のどの氏だってファミリーネームになりうるし、場面ごとに、ファミリーネームの使い分けがあったって何も困らない

そういう議論にも及んでいないほど未熟ではあるけども、たしかにここ10年で議論自体は進んだのかもしれない

同性婚に関しては、その数の多さもあって、もう無視しきれなくなって、一切の制度的手当がないことを違憲という判断も行われだした

家族って何だ?

当事者でなくても、考えていかなければならない

別姓婚も同性婚も完全にひとごとで、ふつーに結婚して、ふつーに家族になって、ふつーに共同親権で子育てをしてきた、というふつーの人が直面するのが、離婚や別居に直面したときの単独親権制の問題だ

離婚したら、親権者をひとりに決めるのが、ふつーですよ、と言われても、初めて抵抗を覚える

だが、ときはすでに遅しである

どうも、民法は、別姓婚も同性婚も共同養育も禁止していないから、法律を変える必要はなかいのように語られがちだ

たしかに、民法をよく読み、婚姻届に頼らずとも、家族別姓でありながら、家族らしく親子らしく支障のない日々を送ると、立法の必要性を感じるわけではない

が、そんな、民法を使いこなすようなことを一般国民にも強いるというのか?

法律がわかりやすいものであることが通常要請されるのではないか

多様な家族観を肯定しつつも、一線の必要を実は感じている

ある意味、今の民法では自由すぎて、夫婦同等の生活をする場合に、養子縁組が借用されることがある

親子では、その間に子が生まれて共同養育していても共同親権になりえない

軽率に養子縁組をして、一回親子になってしまったら、あとから翻意して、夫婦になろうとしても、禁止される規定がある

同性婚の場合も、長く、同性愛自体が秘められた存在だったころ、家族になるために養子縁組が使われていたりした

しかし、戸籍上の性別を変更することが可能になって、戸籍上異性になれば婚姻ができる関係になってくると、過去の養子縁組がネックになることがある

わかりやすい家族法が望ましい

共同養育という価値は、単独親権制でも共同親権制でも変わりなく肯定される

共同養育は平和という標語と同じなのかもしれない

しかし、平和のために武器を持つのか、武器を持たないのか、答えが出ないのと同じように、共同養育をいうだけでは、解決しない

共同養育をしようにも単独親権制が支配構造を延長させかねず、苦しい状態をもたらすことになる

合意がなければ共同養育ができないという理想が、かえって、意に反する合意を強制することもあったりする

合意というのは結果であって、大切なのは、各々が自律することに思う

完全なる主観的な思いもひとまず尊重されたっていいと思う

「会わせたくないんです」そういう感情も自然なのかもしれない

紐解いていくと、自身が会いたくないだけ、で会わずに済むならば、別居する親子が会うことを耐え忍ぶことができるという気付きにたどりつくこともあるだろう

その場合には、支援者の存在が重要になる

支援者は、別居親子の親になにかの問題があって監視しなければならない場合に限らない、ということも広く知られる必要があるということだ

親である自分と子どもの人格が別であり、子どもの権利を尊重し、妨げてはならないという理解にたどりつくと、うまく支援者からの支援も頼りながら、共同養育が実現していくかもしれない

自分の中の自然な気持ちを尊重されることで、他者への尊重が芽生えるということもありうるのである

そうこうしている内に、かつて夫婦となって近い存在であった配偶者が、無害な他人となる

他人であれば、さほど気にならないクセが、配偶者のそれだと、嫌悪どころか憎悪の根源になったりもする

配偶者のことがキライという感情も否定しなくていい

それでこそ尊重されるということだ

その分、子にとっては、同じ人物が配偶者ではなく親であるということを受け入れていく

子どもの中にあるポジティブな親としての存在に気づくと、その存在はなるべく良好であった欲しいという思いになる

そのためには、自分からみたら配偶者としてのネガティブなイメージを共有することは妨げにしかならないし、必要がないことである

子の育ちにとって大切なこと、子どもの目線で考えることを社会全体で醸成することではないか

別姓婚も同性婚も夫婦の問題

そこには子どもがいない場合がある

同性婚に関する違憲判断も、子どもがいない婚姻があるのに、という点で、子どもの問題を切り離していたりする

別姓婚に関しては、最高裁が、子の氏のことをどうするのかという水を向けて、合憲判断にとどまった

全ては単独親権制の見直しに尽きる

子どもの目線で考えて、わかりやすくシンプルな制度であって欲しい

共同養育を肯定するのであれば、共同親権制に整えること

婚姻中の夫婦に限定した共同親権にとどまらず、広く、共同親権による共同養育を享受できることにするのが子の平等でもあるだろう

もちろん、婚姻中であろうがなかろうが、不適切な親に対しては厳しく介入し、社会の責任で子の福祉を守ることも必要である

DVに展開した場合の婚姻中の共同親権は、それを解消するためには離婚を要するとする運用が無理を強いている(親権喪失・親権停止の制度が機能していない)

離婚当事者に限定される問題ではない

親子が会う会わないというレベルの問題ではない

子育て世代がこの先の長い人生の中で、親子がどうあるべきか、家族がどうあるべきかを真剣に考えるときである

憲法記念日がいいきっかけになる

法がどうあれ、自律していくと、楽になるのは、また別の冒険である

そんなハードモードプレイ限定ではなくて、わかりやすくシンプルな法制度で、誰もがイージモードプレイが可能になる社会がふさわしく

それは憲法の要請だと思う


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