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なぜ退屈するのか? 退屈からは逃れられない? 國分功一郎著「暇と退屈の倫理学」

こんにちは、みなさん! 突然ですがみなさんSNSやってますか?

SNSと言えば、昔はMixiしかありませんでしたが、今ではTwitter, LINE, Facebook, Instagarm, TikTokなどなど・・・ 膨大な種類のSNSがありますね。

もう数が多すぎるあまり、気になった投稿があってもどれに書いてあったのかさえ思い出せない。友だちに連絡した時にどれで連絡したかも覚えてない。そんなこともしばしばです(笑)。

でも、それぞれのSNSから毎日大量の情報が送られてきますが、どれだけの人が真剣に見ているのでしょう? ぶっちゃけ「特にやることないから退屈しのぎ」で見ている人がほとんどじゃないでしょうか。

しかも退屈しのぎでSNSを見ているのに、ぼーっと見てるだけで「やっぱり退屈」。気晴らしにさえならない。そんな経験、誰しもあるのではないですか?

そんな「何となく退屈」を感じているあなたにオススメなのが、今回ご紹介する「退屈とは何か?」を徹底的に考えた本、國分功一郎 著「暇と退屈の倫理学」です。

 

著者略歴

著者は國分功一郎 (こくぶん こういちろう) 氏。東京大学准教授。専門は哲学ですが、政治体制や国家統治論、あるいは経済学などについても造詣が深い。私もいくつか著書を持っていますが、「来たるべき民主主義」「近代政治哲学史」など、哲学的な考察をさまざまな分野の問題に応用して、生きた学問として哲学を研究している学者。そんなイメージです。

  

こんな人にオススメ

「やることは沢山あるけど、なんとなく退屈。」

「仕事は忙しいけど何か充実しない。」

そんな現代人特有の悩みを抱えるあなたにオススメ!

「暇」や「退屈」という現象は一般的に「やることがない人」「ぼんやり、流されるように生きている人」が感じる物だと思われています。しかし、この本を読み進めると、実は「日々忙しく、考えるような余裕もないような人こそが退屈に陥っているのだ」ということことがわかってくるんです。

「忙しいのに退屈」。

一見矛盾しているようですが、しかし多くの現代人が悩まされているこの恐るべき退屈のメカニズムに対して、哲学的な視点から平易な文章に切り込む意欲作となってます。

   

暇と退屈は別物?

ところで「暇」と「退屈」はよく混同されて使われますが、実は意味が全然違います。特にこの本では「退屈」の方は人間の持つ活力を弱めるようなネガティブな方向で使われます。一方で、「暇」はむしろ人間の活力をより豊かにする「ゆとりのある時間」のようなポジティブな方向で使われています。

ちょっと軽い言い回しになりますが、「ネガティブな退屈を乗り越えて、暇な (=余裕のある) 人生を踏み出そう」というような意味合いの本だと考えて頂いた方が良いと思います。

したがって、この本を読む時には「暇」と「退屈」を分けて考える必要があります。

その上で「退屈」になぜ倫理学が必要なのか。

退屈の何がマズイのかを考えてみましょう。


退屈だと何か問題があるの?

この本の中ではさまざまな哲学者による「退屈論」が紹介されます。

その中で重要なのが20世紀の哲学者バートランド・ラッセルです。著者によるとラッセルは次のように「退屈の原因」を解説します。

人は毎日同じ日々が繰り返されることに耐えられない。そのように想像することにすら耐えられない。だから人は今この瞬間を変えてくれる“何か”が起きてくれることを望んでいる。

それは別に良いことでも、悪いことでも良い。“同じことの繰り返し”にさえならなければ何でも良い。

それは他人の不幸だけに留まらない。場合によっては自分自身の不幸すらも「退屈よりはマシだ」と求める可能性がある。

つまり「退屈している人間がもとめているのは楽しいことではなくて、興奮できることなのである。興奮できればいい。だから今日を昨日から区別してくれる事件の内容は、不幸であっても構わないのである。」 (本書P57を要約)。

 

恐ろしいですね。

退屈している人が求めるのは興奮であり、興奮できさえすれば“何でもいい”。ちょっと受け入れがたいかもしれません。でも、会社で横行するパワハラ、なくならない学校でのいじめ・・・人が集まるところでは何かしらこういう問題が起きます。

それもそのはず。要するに退屈だからです。退屈を紛らわすためであれば何でもいい。

よく「なぜいじめがなくならないのか」ということが言われますが、人間が退屈である限りいじめのような社会問題はなくならないということです。



なぜ人は退屈するのか?

ではなぜ人は退屈するのでしょう?

これに関して著者はいくつかの原因を紹介するのですが、その中でもめちゃくちゃ面白いのが、人間の脳が歴史の中で高度に発達しすぎたから、という話です。これはメチャクチャ面白いのでぜひ読んでほしいです。

少しだけ紹介すると・・・古代の人間はどこかに定住せずに移動しながら生活をしていました。その中で人間は食料を得たり、危険を回避するために探索する力、物事の動きを予測する力など、さまざまな能力を磨き続けてきた。ところが農業革命などにより定住生活を行うようになると、その高度の発達した探索能力を持て余すようになった。

この「能力の持て余し」が退屈を生み出しているというのです。だから人間は退屈から逃れることができない。何をしていても「なんとなく退屈だ」という心の声を耳にしてしまう。

本書ではもっと丁寧に詳しく説明してありますが、おおよそこんな流れです。

この説が歴史的に正しいかどうかは分かりません。ただ、実際に能力一杯にフルパワーで活動していれば退屈を感じる隙間などありません。また、どんな人間でも24時間フルパワーで活動することはできません。

そう考えると「退屈」と「能力の持て余し」に関係があるという説はとても面白いと思います。 


退屈を乗り超えることはできないのか?

さて、ここまでの話によると

・退屈から逃れようとする気持ちが自分や他人の不幸をも招く

・退屈は人間の高度な能力の裏返しであり、逃れられない

ということになります。

つまり、人間は退屈から逃れることはできないのに、それから逃れようと様々な不幸を呼び込む罪深い存在だということです。それが人間の性である以上、人間はこれからもずっと退屈を紛らわせるために、これからもずっと不幸を招き続けるのでしょうか?

人間が退屈とそれが招く不幸を乗り越える方法はないのでしょうか?

 

この本ではその問題に対して3つの結論を提示しています。

しかし・・・具体的その内容についてはここでは取り上げません!

「取り上げねーのかよ!!」とツッコまれそうですが、申し訳ない!

ネタバレになるという理由もあるのですが (笑)、一番の理由は著者が「これらの結論は本書を通読してから読まないと意味がない」とはっきり書いているからです。

これは本当にその通りだと思うし、私は著者の意図を尊重したい。だからここでは著者の結論は紹介しません! (笑)

実際、著者が出している結論は取り立てて特別な話ではないのです。

推理小説で先に犯人を知るために最後から読んでしまう人がいますが、その方法で読むのこの本はつまんないです。

逆に、その結論に至るまでの話の展開を理解してから読むと「深い!」と思わせられるものです。ですので、ぜひ本書を読んでその結論の「味」を味わって欲しいと思います。

 

とはいえ。

とはいえ、ですよ。

ここで強制終了ってわけにもいきませんので、著者の結論を踏まえた上で、私なりに著者の考えと私の考えを融合させた「退屈を乗り越える方法」ついて書いてみたいと思います。


「退屈」を超えて「暇」へ至る方法

さて、ここまで「退屈」を主軸にしてこの本の内容を紹介してきました。しかし、タイトルにある「暇」の方はほとんど取り上げていません。

実はこの「暇」という概念が退屈を乗り越える上で重要になってくるのです。

 

最初の方にも書きましたが、この本では「暇」と「退屈」を分けて考えています。退屈はここまで紹介してきたように、どちらかというとネガティブな要因として取り上げています。

一方「暇」の方はかなりポジティブな捉え方です。

どちらも時間を持て余している状態という意味では似ているのですが、

退屈 : 

もっと時間を有効に使いたいのに、自分の力では何ともならず無為に時間だけが過ぎていく状態。

暇 : 

時間に余裕があり、自分の意思次第でその時間をどのようにも使える自由な裁量が与えられている状態。

ざっくり言うとですが、こんな感じです。言い換えると退屈は自分では何もコントロールできない奴隷状態なのに対し、暇は自分でコントロールできる自由人の状態。この2つは似て非なるものなのです。

 

先程もご紹介したように、人間の高度な能力の結果でもある「能力の持て余し」状態自体は避けることができません。でも、それを「退屈」ではなく「暇」に変換することはできる。自分が何かに囚われる隷属状態をできる限り避け、自分が時間をコントロールする「暇」の状態を生みだすこと。

それができれば「退屈が招き寄せる不幸」を克服し、より実りのある生活を実践することができるのではないか? それこそが「暇と退屈の倫理学」というわけです。

では、どのようにすれば退屈から暇へと転換することができるのでしょうか?

 

退屈を乗り越えるために必要なこと

それはズバリ、「目の前にある一つ一つのことに真剣に向き合うこと」です。

 

たとえば退屈の気晴らしにSNSで有名になっているカフェに行ったとしましょう。

そのカフェでオススメのコーヒーを飲み、それを写真に撮ってインスタに上げる。

それがいろんな人からシェアされたり、「いいね」をもらって満足して家に帰る。

よくある体験ですね。

もちろん、これはこれで一つの楽しみ方ではあります。

ですが、これだと単なる退屈の気晴らしでしかありません。「素敵なカフェに行ったおしゃれな私」という“ステッカー”を自分に貼るために、時間を消費しただけなのです。

それだと結局、すぐ「なんか退屈だな〜」という気分になるでしょう。退屈の無限ループに突入です。

 

でも、例えばそのカフェに行った時に「なぜ人気なのか?」を考えてみたらどうでしょう。

立地条件? 

内装のデザイン? 

コーヒーを淹れる人が何かの賞を獲った人だから?

などなど・・・。

あるいは実際にコーヒーを飲んで美味しいと思ったのなら、なぜそのコーヒーが美味しいのか考えてみたり、実際に店員に聞いてみる。どこで作られたコーヒー豆なのか? どうやって淹れているのか?

もしそのコーヒー豆が手に入るのであれば、それを自分でも淹れてみてみる。もっと美味しくできる方法はないのか考えてみる。

 

そのように物事をただ「消費するだけ」ではなく、一つ一つにちゃんと向き合い、自分で考えてみると、実は世界には自分の知らない新しい何かに満ちていることがわかってきます。

退屈は現代人が持てる能力を持て余していることが原因だと書きました。

だったら、能探索能力、予測能力、分析能力などの高度な力を最大限に活用できる場所を探せば良い。そして一つひとつの物事にちゃんと向き合えば、実はその可能性はいくらでも転がっているのです。

そのような世界の可能性を楽しむ時間を持つこと。

自分で自分の時間の使い方や、自分が何に心を動かされるのか、そのようなことに向き合うゆとりを持つこと。

これこそが「退屈」を超える「暇」の極意であるように思います。


まとめ

という訳で、今回ご紹介した「暇と退屈の倫理学」、いかがだったでしょうか?

どんなに仕事が忙しくても退屈を感じる人は多いと思います。

忙しくて大変なんだけどなんか充実しない・・・。そんな「退屈」を持て余している人が。

 

もちろん「退屈だなぁ」とぼやきながら気晴らしに興じるのも良いでしょう。「何かをしないと時間がもったいない」とストレスを感じるよりは余程マシかもしれません。

ただ、どうせ退屈なら

・その「退屈」という気分がどこからやってくるのか。

・なぜ自分は退屈だと感じるのか。

・退屈から逃れるためにはどうしたら良いのか。

と、退屈について徹底して考えてみるというのも一興ではないでしょうか。

案外退屈について真剣に向き合ってみることで、今まで見えなかった新しい世界が見えてくるかもしれませんよ。この「暇と退屈の倫理学」という本は、その退屈論の道案内としては絶好の図書になると思います。ぜひご一読を!

長文を最後までお読み頂きありがとうございました!

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