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ちあきなおみ~歌姫伝説~9 「喝采」とその時代

 「喝采」がリリースされた一九七二(昭和四七)年の日本は、まさに"激動の時代"と謳われた季節の終焉を迎えようとしていた。
 一九六〇年代後半、一九七〇(昭和四五)年の日米安全保障条約の書き直しを阻止せんと、
学園紛争(全共闘運動)の嵐が吹き荒れ、ベトナム反戦デモが激しさを増してゆく中で、その勢いはミニコミ、小劇場運動、ロック、フォークといった分野にも飛び火し、既成の価値体系に反逆する熱い風はやがて世代を超え、社会全般を巻き込こんでゆく。
 その異常なまでの熱気は、多くの一般企業の組合組織に拡散され、マルクスの「共産党宣
言」の如く、高度成長に乗る資本家たる権力の土台を崩し、労働者との力関係を逆転させようとする階級闘争のエネルギーを摘出し、既存の体制の秩序を混乱させていった。
 この時代の空気感は、"過激派"と称された、反権力派が狼煙を上げた新左翼運動に呼応するように、傍観者を決め込む有象無象さえも重い腰を上げかねない意義をはらんでいたのだ。
 だが、七〇年六月二三日、条約は自動延長される。武装闘争をもってしても「六〇年安保」
の仇を討つことができなかった「七〇年安保闘争」は、人々の心に残像を強く刻み、その余韻は時代を空虚感で包み込んでゆく。
 この流れの中で、三島由紀夫が割腹自殺を遂げ、日米間において沖縄返還協定が結ばれる。

 そして七二年、連合赤軍による「あさま山荘事件」は起こる。
 警察権力への徹底抗戦の構えを崩さず、民間人を人質に取ったこの立てこもり事件は、テレビで十時間以上生中継され、連合赤軍と警察の銃撃戦による攻防は、ドラマさながら数千万人の視聴者に見守られた。
 学生運動が弱体化する中で結成されたこの新左翼組織は、思想の相違を生み、内部崩壊は避け難く、後に、この事件によって仲間へのリンチ殺害(山岳ベース事件)が発覚し社会に衝撃を与える。
 そして、かつて戦時中の"戦争万歳"から、敗戦により一転して"民主主義万歳"となった日本と同じように、社会は「あさま山荘事件」を前に、一連の時代に吹き荒れた熱い風は、倫理を逸脱した錯誤たる逆風だったと、政治の問題とせず、旧態依然とした秩序へと腰を落ち着けていった。
 しかし、この激しい戦いの季節は、原理と革命を賭けて燃焼した紛れもない劇的な時代であり、人々は日常の中に虚構を発見し、虚構の中に現実を見ていたのであろう。
 浅間山中に吹き荒れた風は、黄昏ゆく時代模様の中で虚実のあいだを往還し、来るべき冬の時代を誘い込んだのである。

 一九七二年を紐解いてみれば、一月にグアム島で元日本陸軍兵士横井正一が発見され、二月には札幌オリンピック(日本初の冬季オリンピック)が開催、四月にはノーベル文学賞作家の川端康成が自殺、五月にはアメリカから日本へ沖縄が返還された。七月に入ると田中角栄内閣発足、ハイセイコーが大井競馬場でデビュー、日本テレビ系でドラマ「太陽にほえろ!」が放送開始される。九月には日中国交正常化の共同声明に調印、国交を結んだことを記念し、十月には上野動物園にジャイアントパンダのランランとカンカンが来園、十一月には日本航空351便ハイジャック事件、そして十二月の「第十四回日本レコード大賞」は「喝采」が受賞する。

 当時五歳だった私は、この時代の匂いなど嗅ぎ取ることはできないが、振り返ってみれば、
なぜかブラウン管に映し出された「あさま山荘事件」の鉄球による山荘の壁と屋根の破壊シーンと、「喝采」の受賞シーンは微かながら覚えているのだ。
 私流の妄想ではあるが、「あさま山荘事件」と「喝采」は、時代の中で観念的に連結している気がしてならない。

シングル盤ジャケット


 「喝采」のヒットは、鉄球によって崩れ去るかのような激動の時代を退け、日常的現実原則に則った安定した秩序を取りもどすために、虚構としてのドラマを必要とする大衆感情の反映であったのかもしれない。
 そして、そのドラマチックな歌詞の中のアナタとは、戦いに敗れた革命戦士であるのかもしれないし、時代そのものであったのかもしれないのだ。
 ちあきなおみの歌唱は、一九七二年の日本人の心の中を、それぞれの色合いに比類なき哀感で染めていったに違いない。

 後追い世代の私の想像では説得力に欠けるので、「週刊現代」に掲載された、【都はるみとちあきなおみ なぜ昭和の二大歌手は歌わなくなったのか】という記事の中での、「喝采」とちあきなおみに関する、直木賞作家の村松友視氏のコメントをご紹介させていただきたい。


 「喝采」が出た72年、僕は中央公論社で「海」という文芸雑誌の編集者として働いて
いました。
 当時、仕事の方針を巡って編集長と揉め、鬱屈とすることが多かった。そんなときに「喝采」を聞いて、行き場のない切なさに惹かれました。心の穴を埋めてくれる、そんな気持ちになったのです。
 当時、僕は東京・大井町の、床が板張りでやけに音が反響するアパートに住んでいました。そこでドーナツ盤を買ってきて、「喝采」を大きな音でかけました。
 彼女の歌は、誰にもカバーできません。他の人が歌っても、絶対にちあきなおみを超えることができない。だからカラオケ番組で別の歌手が歌っているのを聞いても、物足りないんです。

週刊現代2020年11月28日号

 敬愛する村松友視氏の言葉だからというわけではないが、ここには、七二年という当時のフィーリングがひしひしと伝わってくる響きがあるのだ。そして、移ろいゆく時代を、"過激"に見つめた人間にしかわかり得ない、純然たる「喝采」論があるのだ。

 それでは、ちあきなおみ自身は「喝采」とその時代に、どのような思いを抱いていたのであろうか。
 たった一度だけ、私は本人に聞いてみたことがある。
「歌わなければいけない・・・・ただそれだけ。自分が今どこにいて、なにをしているのかさえわからなかった。もうこういう状態」
 
ちあきなおみはそう言って、目を大きく見開き、虚空を見据えた。
               つづく

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