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ちあきなおみ~歌姫伝説~20 山口百恵という儚さ・後篇

「赤い疑惑」は、一九七五(昭和五十)年十月から翌年四月まで、宇津井健主演で全二九話放送され、最高視聴率三〇・九%(ビデオリサーチ調べ)を記録した人気ドラマだった。
 実質上の主役は山口百恵で、主題歌には前記した「ささやかな欲望」(作詞・千家和也 作曲・都倉俊一)のB面に収録された「ありがとう あなた」(同)が起用され、「枯葉がひとつずつこぼれるたびに 悲しいお別れ近づいてます」と歌われる歌詞とドラマの内容がリンクし、出生の秘密禁断の愛白血病といった混沌とした困難を、山口百恵演じる少女ひとりに覆い被せ、これでもか、これでもかとばかり、ほとんど嗜虐的アングルで「百恵ちゃん」をイジメ抜くのである。

 オー・ヘンリーの小説「最後の一葉」は、重い肺炎を患った少女が、病室の窓から見える枯れかけた蔦の葉がすべて落ちたら自分も死ぬのだ、と思い込み生きる気力を失くすが、激しい風雨の中、最後の一葉が落ちることなく枝にとどまっているのを見て、奇跡的に全快を果たす。しかし、その最後に残った葉は、老画家が冷たい風雨に打たれながら描いたものだった、という物語だが、この少女の絶望孤独、少女を支える周りの人間の悲哀、そしてそのような人間が信じてすがることしかできない、希望奇跡、そういった劇的なるキーワードに私が「赤い疑惑」を重ね合わせたのは、中学校の教科書でこの物語を読んだときだった。

 しかしドラマは、視聴者の「百恵ちゃんを死なせないで」という切実な声と、物語の中では奇跡が起こる、という期待に背き、最後の一葉は落ち、山口百恵の死によって幕を閉じたのである。
 放送終了後、テレビ局(TBS)には抗議の電話が殺到したそうであるが、このドラマによって、私は山口百恵を絶対的な"薄命のヒロイン"と見立てたのだ。
 山口百恵主演の東宝映画、「絶唱」(西河克己監督)や「風立ちぬ」(若杉光男監督)でも、そのヒロイン像は期待を裏切ることなく、スクリーンの中で苦難に堪え忍ぶ山口百恵の死をもって息づき、その像はよりいっそう生命感に溢れ虚構空間を飛び出し、私の前で切なく存在してみせていたのだ。

 一九七五年から八〇(昭和五五)年まで、新宿コマ劇場(現・閉館)で毎年八月に開催された「百恵ちゃん祭り」の第二回、山口百恵はMCでこんな発言をしている。

「去年、このステージの幕を下ろしてからの一年間、私はいろいろと貴重な体験を積みました。たぶん皆さんには、こんなことは無理じゃないかと思うんですけど・・・・。今私は非常に健康なんですけども、この一年のあいだに、結核を二回、そして、白血病を一回、経験しましてね・・・・」

 もちろんこれは、映画やドラマの中のことを愛嬌で言っているのだが、それにしても一年(一九七五年~七六年)のあいだにこういった役を三度も演じるということは、山口百恵とはそうでなければならない、といった製作側の的を得た戦略と、自分を取り囲むものを、個性を浮き彫りにするものへと変えてしまう、山口百恵の存在感によるものであろう。
 ちなみに、山口百恵の言う白血病はテレビドラマ「赤い疑惑」、結核は映画「絶唱」「風立
ちぬ」であるが、テレビで火がついた百恵ちゃんブームをそのままスクリーンに持ち越し、商業的にも大ヒットとなっている。
 当時の「キネマ旬報」(第688号)を見ると、「絶唱」は「赤い疑惑」の放映中である十
二月の公開で、松竹VS東映の、いわゆる寅(男はつらいよ)=トラ(トラック野郎)対決の中で、日本の青春映画では初となる収益十億の大台突破、十億五千万円を上げる大ヒットと健闘している。

 「絶唱」は、戦争によって引き裂かれた若い男女の純愛物語であるが、劇中、男女がそれぞれの地で同じ時間、「吉野木挽歌」(奈良県民謡)を哀感込め歌い、山口百恵が歌う主題歌
「山鳩」(作詞・千家和也 作曲・三木たかし)も、「死んでゆきます ひと足先に」と歌われ、私はそのあまりにもリアルな儚く美しいヒロイン像を、映画館をひとつの世界に見立て、もうひとつの現実の中で歌とともに受けとめていた。
 こういった時代を経て、その後山口百恵は次々と別の顔を見せてゆく。
 薄命のヒロインとしての山口百恵フリークであった私は、「横須賀ストーリー」(作詞・阿木燿子 作曲・宇崎竜童)からはじまる、「イミテーション・ゴールド」(同)、「プレイバックPart2」(同)やそれ以降、ドラマチック歌謡の担い手としてポストちあきなおみとされた、今を生きる意志を強く持った現代女性像や、「秋桜」(作詞・作曲・さだまさし)、「いい日旅立ち」(作詞・作曲・谷村新司)といった、しとやかな女性像に、出会い頭で感じた陰のあるイメージは崩れ去り、現実の中にいる女性といった感じを受け、些か興味が薄れていった。
 ただ私は、三分間のドラマの中の歌手・山口百恵に、どのように同じ仕掛けをしても、他
のだれにも歌うことのできない歌を見事に演じている、との思いを抱いていた。ひとたびマイクを持つ姿を見れば、否でも応でも百恵世界に引き摺り込まれてしまうのだ。そのことこそ、存在自体が本質なる歌や演技を超えてしまうという、山口百恵の真価というものであるのかもしれない。

 しかしながら、そんな唯一無二の存在であった山口百恵は、一九八〇(昭和五五)年、人
気絶頂のさなか引退を宣言する。
 そして迎えた最後のステージ、日本武道館で開催された引退コンサートはTBSで生中継され、視聴率二七%(ビデオリサーチ調べ)を記録している。
 当時、十三歳の中学生だった私は、妙にもの寂しい想いで、この生中継を見守っていた。「これで最後なのだ」という物語の結末を知った上で、山口百恵ファンは自らを追懐し、ひとつの時代の終焉に惜別の念を抱いたことだろう。

「皆、私のわがままを許してくれてありがとう。幸せになります」

 こう言い残し、「さよならの向こう側」(作詞・阿木燿子 作曲・宇崎竜童)を歌い終わり、マイクをステージ中央に置き、ゆっくりと舞台奥へと歩いてゆく背中、そして不死鳥の如く正面切って迫り上がり、閉じられてゆくカーテンの中に儚く消えてゆく姿に、私はやはり山口百恵たる真骨頂を見た気がしたのである。
 そして、絶対に復帰してほしくない、と思ったことを記憶している。

 あれから四十年、この最後のステージを映像化した、「伝説のコンサート 山口百恵1980・10・5 日本武道館」がNHKで放映され、大反響を呼び再放送もされたが、同じく昨今、繰り返し特番が組まれ"伝説"と冠される、もうひとりの絶対に復帰してほしくない歌姫であるちあきなおみ体験に至ったのは、私が二四歳のときだった。
               つづく

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