不条理怪談論 第一回「文字がふりかえる隙間」
今からわたしが書こうとしている文のつらなりは、たとえば「不条理怪談とは何か?」とか「その起源は?」「定義は?」みたいな話では基本的にない。ならどうしてこんなタイトルにしたのかといえば、ただ突然「これだ」とピンときたからというか、インスピレーションである。「不条理怪談/論」なのか、「不条理/怪談論」なのかも決定せずに書きはじめているので、もし後者だった場合この文章じたい「不条理怪談」的なニュアンスを帯び、「不条理怪談」についての論ではなく「不条理」な怪談論が書かれると告知していることになるだろう。
ある種の傾向の怪談……怪異の怪異なりの道理や因果関係があきらかにされないタイプの怪談が世に「不条理怪談」と呼ばれることがある。わたしがこの十数年間手掛け続けている実話怪談作品がそこに分類されることもしばしばある、という意味で個人的に馴染みある字面ではあるけれど、自分からたとえば看板みたいに「不条理怪談」を書いていますと名乗ったり意識したことはないと思う。「不条理怪談」を書いているという意識がなくとも、わたしの書く怪談がなんからの意味で「不条理怪談」に分類可能なら、わたしの怪談観が露出される文章もある程度は「不条理怪談」論になっているのではないだろうか。
念のため断りを入れておけば、怖い話の集め方であったりそれを文章に書き起こすノウハウなど実用的な話をするつもりも基本的にない。わたしはそれなりにキャリアのある怪談書きだけれど、いわゆる怪談業界に知り合いがほとんどいないので業界裏話的なことの披露も期待しないでほしい。仕事の裏話的な語りがそもそもわたしは得意ではなく「全部オモテである」あるいは「全部ウラである」という態度で通したいタイプの書き手かもしれない。ここでは原則として「全部オモテ」または「全部ウラ」(そのふたつは結局のところ同じことだが)の話だけをするつもりでいる。気の向くまま話を接いである程度の長さを得、これくらいかなと思ったらサクッとやめる。続きはまたいつか、気が向いたとき視点を変えて書くかもしれないし、今回のこの文章だけの一度きりになる可能性もある。今からわたしが書こうとしているのはそういう種類の文章である。
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当然のことだけれど、わたしは昔から恐怖に関心がある。ことに一般に怪談と呼ばれるジャンルに対しては、個別の傾向や作風の好き嫌いは措いて漠然と全体に好意や期待のようなものを寄せている。わたしにとってよきものとしての恐怖はだいたいこの周辺にあるはずだという信頼だ。恐怖をエンターテインメント化するジャンルの中にも苦手なものはあって、たとえば遊園地の絶叫マシンやお化け屋敷等ははっきりと嫌いであり、忌避している対象だ。たとえばお化け屋敷に対しては、こちらを怖がらせようと待ち構えている人間への不快さのようなものがある。恐怖と不快のあいだには密接な関係があると思うのだが、「人間による脅かし」の不快さはわたしが怪談に求めている恐怖とは質的に遠いものだ。仮に暗闇に潜む存在がすべて機械仕掛けの人形や映像だったとしても、それらの機械をつくって怖がらせようと管理運営している人間が背後にいるという意味で、それは大きく言って人間関係のなかでの出来事だなと思う。
人間関係のなかの出来事としての恐怖エンタメというものがあって、たとえば肝試しはその原始的なかたちだろう。友人なり恋人なりとの日常の人間関係を非日常的な心霊スポットや廃墟へと移動させ、そこで圧迫をかけてくる恐怖心が関係におよぼす変化を愉しむというわけだ。そもそも遊園地のお化け屋敷もたいてい単独ではなく誰か親しい連れと入るものだろうし、恐怖が社会に必要とされている場面は第一にコミュニケーションツールとしての役割なのかもしれない。
一方で、わたし自身が怪談に期待しているのは、人間の悪意も善意も届かないところへと逃げおおせる特殊な乗り物としての役目である。だからわたしの怪談観は「コミュニケーションツールとしての恐怖」とは基本的に相性が悪い。怪談こそ「コミュニケーションツールとしての恐怖」の最たるものじゃないかという意見もあるだろうし、それはじっさいその通りでもある。「わたしと同じ社会に暮らす、場合によってはわたしだったかもしれない誰か」の体験をはじめに想定して生まれ、「わたしたち」によって出来事が語り継がれ書き継がれるものが怪談だからだ。それは「わたしたち」のコミュニケーションのひとつのかたちであり、たしかに人間関係のなかの出来事である。
そう前提したうえで、少なくともわたしがつよく惹かれるタイプの怪談には、どこか人間のいとなみを根本で裏切っている気配が感じられる。それは怪談のなかに登場する人間たちがなんらかのひどい目に遭ったり、そこに人外的な存在が出現するからではなく、もっと世界観の根底のようなところに「人間がいない」感じがするということだ。「声で語られた怪談」よりも「文字で書かれた怪談」を相対的にわたしが好むのも「人間がいない」怪談への志向と関係があるのだろうと思う。声は伝えるべき相手にメッセージを伝え終えると(録音でもされないかぎり)そのまま中空に霧散していくが、文字は読み手にメッセージを伝えた後もそのまま紙の上にしつこく、多くは書き手や読み手の寿命をこえて居座る。そこにたぶん怪談が人間関係の営為からはみだしていくためのひとつの契機が見いだせると考えられる。
文字をコミュニケーションツールとして使い、互いにメッセージをやりとりしていた書き手や読み手が立ち去った後に残された文字たちは、まるで幽霊屋敷と化した廃屋の住人のように、人間不在となった場所でかれらだけの会話を続けている。わたしはそのように感じているのであり、ことは怪談にかぎらず、あらゆる「文章を読む」体験はほんとうは本質的に不気味なものだということになるのだが、この世にある文章の大半はその不気味さを抑圧することで機能している。人間の目を盗んで目くばせし合い、われわれには意味の汲み取れないコミュニケーションが文字と文字のあいだには成立している気配があるということ。そのことの不気味さをいっけんそうとはわからないように死角に隠して、家庭でも簡単にできるおいしい料理の作り方を伝えるとか、見た映画のおもしろさと残念だったところを記録するとか、さまざまなしかるべき社会的な仕事を果たしているのが普通の文章だが、逆に抑圧を緩めて文字のもつ不穏な気配を積極的に利用するタイプの文章も存在する。そのひとつがいわゆる文章怪談だというわけである。
一方、わたしが好きなタイプの「声で語られる怪談」にも、どこかしらその声のうちに「文字」に通じる性質を帯びたところがあるように思う。今きちんと分析する用意はないが、たとえば桜金造氏の語る実話怪談、あの有名な「1ミリの女」を思い出してほしい。万が一知らないという人はネットを検索すればじっさいに語られている動画なり書き起こした文章なりがすぐに見つけられるはずだが、あの異様に怖くかつ興味深い体験談は声で語られているにもかかわらずどこか「文字」に似た感触を呼び起こす話ではなかっただろうか。思い出してほしいのだが、桜氏は「1ミリの女」のクライマックスに「食器棚と壁のわずかな隙間に女がいるのが見え、あまつさえ女がこちらを振り向く」という視覚的にはかなり無理のある描写を置いている。このときあらわれるのは、語りの場に形成されるリアリティの総意に満たないはずの異物が無造作にごろっと手渡されるような経験だ。あるいは桜金造という著名なタレントの聞きなれた「声」を聞いているつもりで耳を傾けていたのに、それが急に「文字」に変わったような予想外の経験と言えばいいだろうか。
頭の中で映像化できないような怪異について口頭で語るのは、本来かなり「語り」の生理に反する行為だろうと思う。声による「語り」は目の前にいる人たちの即時的な反応を織り込みながら為されるものだからだ。その場で細かくコンセンサスを取りつけながら進むことが前提となっている場において、聞き手の想像力の平均値を大きくはみ出すだろう描写は排除されるか、受け入れられるためていねいにわかりやすく調整されることになる。しかし、ほんのわずかな隙間の中に女が立っているのが見えて、その女がこちらを振り返る(のが見える)という二重にありえない光景を「そんなことはありえないはずなのに、たしかにそう見えたんです」などと気を利かせて言い添えてしまったらこの怪談はとたんに台無しになる。その一言を省略する不親切さがゆるされるのは、本来なら「文字で書かれた怪談」だけが怪談としてのある種の零落と引き換えに手に入れた特権のようなものだ。一聴あるいは一読ではじゅうぶんに理解できないような描写を含む表現は、怪談が声から文字に移し替えられるとき聞き手とのコンセンサスがつくりだす恐怖体験への圧倒的な臨場感を失うかわりに文章としての特性に沿って手にしたささやかな権利のひとつなのである。
ところが桜氏は、あの人なつっこいキャラクターで聞く者の懐にすっと入り込みながら突然、それまで聞き手と共有されていたはずの穏当な空気を踏み越えるような語りを無造作に差しはさんでくる。話し手と聞き手の距離が突如歪み、聞き手は親しみのある声として入ってきた言葉が耳の中でごろっと文字のような異物に変わってしまった驚きと違和感をおぼえるはずだ。しかしながらその場では違和感は平然とスルーされ、話はまるでただひときわ恐ろしい出来事を伝えた普通の怪談話であったかのようにそのままの調子で続けられ、閉じられる。語りの怪談としてのある一線を明らかに越えているにもかかわらず、そんなことにはまるで気づいていないかのような顔で線上を行き来してみせる声にふれたとき、わたしはなにか大事な出口を見せてもらえたという喜びをひそかに握りしめている。このとき怪談は人間の世界から出ていく乗り物としての正体を、わたしの前につかのま晒してくれているのだろうと思う。
第一回 了
(これだけ書くのに三か月余りかかってしまい、次があるとして一体いつになるか見当もつかないが「続きを(気長に)待っている」ことを投げ銭というかたちで表明し、筆者の脳と懐に刻みつけたい奇特な方は以下のいまだ空白の行へと今一歩進まれたい)
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