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第2回 こどもホスピス「うみとそらのおうち」ができるまで〜娘から託された宿題を解決するために生きていく〜

6歳の娘はあと半年しか生きることができない。

主治医からそう告げられたとき、なんて冷酷なことを言うのだろうと憤りを感じた。治すことができないなんて。じゃあ私たちはその半年間をどのように過ごせばよいのだろう。
やるせない気持ちのまま医師に尋ねると「とにかく家族で楽しい時間を過ごすこと」という言葉が返ってきた。

今となっては分かる。限られた時間を目一杯楽しく過ごすことの尊さを。

次女・はるかの命を蝕んだ病気の名前は、小児脳幹部グリオーマ。脳の中枢にある脳幹に悪性腫瘍ができる疾患だ。がん細胞を摘出することは非常に難しく、ほとんどの子が診断から1年以内に亡くなるという。

病気の発覚からわずか5ヶ月で、はるかは息を引き取った。

彼女は短い時間しか生きることができなかったけれど、私に多くのことを教えてくれた。たとえ命を脅かす病気とともにあったとしても、子どもはたくましく成長していくこと。遊びたい気持ちも、学びたい気持ちも、楽しい気持ちだって当たり前に持っていること。

この気づきを形にしていかなくては。
これは、はるかが与えてくれた宿題だ。
私はこの宿題を解決していくために生きていこう。
生きていかなくてはいけない。

うみとそらのおうち

侍従川のほとりに佇むうみとそらのおうち
(画像提供:横浜こどもホスピスプロジェクト)

日本で2つめのコミュニティ型こどもホスピスとして知られる「横浜こどもホスピス〜うみとそらのおうち」通称うみそら。その名の通り、金沢八景の海と川が交わる見晴らしのよい場所に建物を構え、大きく開口された窓からは平潟湾の景色を望むことができる。

「ここは病院ではなくおうちですから、みなさんにはできるだけリラックスして過ごしていただきたい。夏休みにおじいちゃんの家に遊びに来たような気持ちでね。パパもママも自分の実家に帰ったときのように、のんびりと過ごしてもらえたら……そんな思いでやっています」

穏やかな口調でそう語る田川尚登さんは、うみそらを立ち上げた中心人物。利用者にとっての第二のお父さん、もしくは親戚のおじさんのような存在ともいえる。
田川さんがこどもホスピスを運営する上で何よりも大切にしているのは、子どもや家族が治療のことを忘れ、楽しいひとときを過ごせる場であること。たとえ命にかかわる病気とともにあっても、その子がその子らしく、尊厳を失わずにいられる場づくりを目指しているという。

「親であれば、我が子に好きなことをさせてあげたい、制約なく自由に遊ばせてあげたいと思うものです。しかし、病児の場合は何かと配慮が必要なため、健常児のように“普通に楽しむ”ことのハードルがとても高いんです。しかし、うみそらには私をはじめ、サポートできる大人がたくさんいます。専門知識を持った看護師や保育士もいるので、親は安心して子どもがしたいことをさせてあげられるし、親自身も普段の緊張を解いてリラックスしながら子どもと向き合うことができるんです」

うみそらの使い方は利用者ごとに異なる。
侍従川に面した見晴らしの良い庭でピクニックをしたり、車椅子のまま利用できる対面キッチンで料理をつくり、友達と一緒に誕生日パーティーをしたり。2階にある家族風呂「うみそらの湯」にみんなで浸かって温泉旅行気分を味わうことだって、うみそらなら実現可能だ。

1階の交流スペース
(画像提供:横浜こどもホスピスプロジェクト)
クラウドファンディングで資金を集めて施工した家族風呂。
ベッドから浴室までリフトが繋がっているため、介助が必要な子も移動がスムーズ。
芝生の庭にはみんなで乗って遊ぶことができる大型ブランコがある。

「私たちは、病児だけでなくきょうだいの子たちにも楽しい時間を過ごしてほしいと思っています。普段は看病で忙しい両親を独り占めしたり、満足するまでスタッフとゲームをしたり。いつもはなかなか言えないわがままをうみそらで発散していく……きょうだい児たちのそんな姿も珍しくありません」

そして、うみそらは遺族にとっても大切な場所である。子どもを病気で亡くした親がうみそらを訪れ、生前に飾った我が子の手型に自分の手を重ねていく。そんな姿も見られるそうだ。ここに来ることで亡くなった我が子に再会することができ、また、我が子の思い出を語り合える人がいる。子どもと死別した家族に対するグリーフケアもまた、こどもホスピスの役割のひとつだ。

田川さんが利用者の気持ちや立場を想像できるのは、かつて田川さん自身も同じ立場にあったからだ。1998年に次女のはるかちゃんを小児脳幹部グリオーマで亡くした田川さんは、娘が亡くなってから今日まで歩んだ道を振り返り、このように語る。

「私は、娘から託された宿題を解決するような気持ちで生きてきました」

託された宿題

田川さんと二人の娘たち
(画像提供:横浜こどもホスピスプロジェクト)

はるかちゃんが亡くなった後の数年間、田川さんは「親としてもっと何かできたかもしれない」という後悔に押しつぶされそうになりながらも、彼女が生きた意味について考えたそうだ。

「周囲の人に話を聞いてもらう中で自分の悲しみを客観視し、少しずつ、娘の死を受け止めることができるようになっていきました。はるかがお世話になっていた病院にも改めて足を運び、医師や看護師の皆さんにお礼を伝えました。闘病生活中に経験したことを見つめ直す中で、あのときは家族で楽しい思い出をつくろうとしていたことや、親として精一杯娘に向き合っていたんだと、そう思えるようになってきました。病気とともにあっても人は深く生きることができる。はるかからもらった大切な気づきを胸に、進んでいかなくてはいけないと思いました。まるで、宿題を突きつけられているような気持ちでした」

はるかちゃんが亡くなってから5年の月日が経った2003年。
45歳を迎えた田川さんは、病児とその家族を支えるべく、友人たちと共に「NPO法人スマイルオブキッズ」を立ち上げた。

「入院中の子どもたちに楽しい気持ちになってもらえるようにと、友人のピアニストを招いて病院の中でミニコンサートを開催したのが活動の始まりです。子どもたちとその家族、病院関係者もたくさん見に来てくれて毎回盛況でした。さらに音楽活動と並行する形で、病児のきょうだいを対象とした預かり保育も行いました。これは病院の患者会に参加する家族が落ち着いて会議に参加できるようにと始めたものです」

院内コンサートやきょうだい児の預かり保育を行う傍ら、田川さんにはもう一つ解決したい課題があった。それは、子どもの治療に付き添う家族がゆっくりと休める場所が地域の中にないこと。病院のロビーや車の中で寝泊まりをしている家族の負担を少しでも減らしたいと考え、同じ志を持った団体と共に「滞在施設設立準備委員会」を2005年に発足。チャリティーコンサートを開催し、3年間で3500万円の募金を集めることに成功した。

しかし、滞在施設を建てるための目標金額である8500万円にはまだ届かず。残りの5000万円を集めるにはあと5年ほど時間がかかることが見込まれた。「ここからまだまだ頑張らなくてはいけない」仲間と共に士気を高めたタイミングで、匿名の人物から5000万円もの入金があった。

「足りない額をすべて寄付します」というメッセージと共に寄付をしてくれたのは、はるかちゃんがお世話になっていた病院の元院長だった。
はるかちゃんが繋いでくれた縁が最後の一押しとなり、プロジェクト始動から3年後の2008年、神奈川県立こども医療センターの程近くに、病児と家族のための滞在施設「リラのいえ」が完成した。

横浜市南区にあるリラのいえ
(画像提供:横浜こどもホスピスプロジェクト)

後に、こどもホスピス設立のきっかけを紡いだ「リラのいえ」もまた、今日まで田川さんたちが大切に築いてきた場所のひとつである。

遺志のバトン

「リラのいえ」の活動が軌道に乗ってきた2013年、田川さんに何度目かの転機が訪れる。

藤沢市に住む石川好枝さんという故人から、スマイルオブキッズに宛てて2,500万円もの寄付金が振り込まれたのだ。生前に面識がなかった女性が、なぜ多額の寄付をしてくれたのか。田川さんは石川さんの弁護士を訪ねて事情を問うことにした。

「石川好枝さんは神奈川県に住む看護師の女性でした。生涯独身だった石川さんは、定年の60 歳を迎えるまで小児病棟に勤務し、脳性麻痺の子どもたちの看護に携わっていたそうです。病に伏した石川さんは、かつて病棟で出会った子どもたちに思いを馳せながら、『私の遺産をこどもホスピスの設立に役立てたい。至らない看護師だったけれど、あの子たちのためにできることをしたい』と弁護士に想いを伝えました。実は当時、神奈川県内でこどもホスピス設立に向けて進行していたプロジェクトがあったのですが、残念ながら中止となり、石川さんはリラのいえを運営する我々のところに寄贈先を変更したのだそうです。そして、もしもこどもホスピスを設立するのであれば残りの遺産の8000万円も寄付したいと彼女の弁護士から提案を受けました」

石川さんの遺志を知った田川さんの頭の中には、こどもホスピスを立ち上げるという選択肢が生まれていた。

─こどもホスピスの存在は小児緩和ケアの勉強会に参加したときに知っていた。しかし、実際に設立するとなれば巨額の資金が必要となる。もしも石川さんの1億500万円の寄付金を受け取ったとしても、設立費用の全てをまかなえるわけではない。それに設立後には巨額の運営費や人件費がかかる。そのためには絶え間なく寄付金を集め続ける必要がある。

こういった多くの難しさを理解した上で、それでも、と田川さんは決起する。

「こどもホスピスを開設することについて、理事会で意見を求めたところ『無謀だ』と反対意見も出ました。しかし、私は自らの経験により、こどもホスピスが地域に親子にとって絶対に必要な場所だと確信していました。あの孤独感を、あの苦労を、私は身をもって知っています。医療従事者ではなく娘を亡くした1人の親として、横浜市にこどもホスピスを立ち上げたい。そう主張しました」

理事会における多数決の結果、賛成派の数が上回り、こどもホスピスの設立に向けて準備を進めていくことが決定した。

そして、石川さんの「こどもホスピスをつくってほしい」という遺志のバトンと共に、残りの遺産が田川さんへ託されることとなった。

こんな場所があったら

こどもホスピス設立の準備に乗り出した田川さんは、2014年に「横浜小児ホスピス設立準備委員会」を発足。チャリティーイベントやコンサートを通してこどもホスピスの必要性を世の中に広め、順調に設立資金を集めていった。

「2018年には目標としていた3億円の資金を集めることに成功しました。準備を進めていく中で自治体にも働きかけ、横浜市の市有地を30年間無償で貸与してもらえることが決定し、現在の地に建物を建設できることになったんです。そこまで大きな土地ではないけれど、水辺の風景が見える開放的なロケーションが気に入っています」

そして2021年11月。7年という準備期間を経て、ついにこどもホスピスが横浜市金沢区に完成した。長い長い道のりだった。到底無理だと言われていた夢を田川さんは形にしたのだ。

(画像提供:横浜こどもホスピスプロジェクト)
うみそらの天井には照明によって星座が描かれている。娘のはるかちゃんのふたご座と、設立のきっかけを与えてくれた石川さんのやぎ座が輝く。

「娘が亡くなってから、こうしてこどもホスピスができるまで、非常に長い道のりがありました。私一人で進んできたわけではありません。一緒に活動を続けてきた仲間や寄付によって想いを伝えてくれた人、共感してくれた人と共に、ここまで進んできました。たくさんの人の想いや行動が集まってできあがった場所なんです。そして、はるかが繋いでくれた縁や与えてくれた気づきによって、私はここまで歩んでくることができました」

開設から1年経った2022年には新たに33家族が利用登録を行い、地域の中でも少しずつその存在が知られるようになってきた。
利用者家族の他にも、大学生や医療従事者、地域の人々などさまざまな人が絶えず見学に訪れる。こどもホスピスが存続、普及する上で、多くの人に知ってもらうことは何よりも大切なことだと田川さんは考えている。もっと多くの人にこどもホスピスの存在を知ってもらえるように、地域へ、全国へ、メッセージを伝えていくことが次なる課題だ。

(画像提供:横浜こどもホスピスプロジェクト)

「はるかが闘病中に、こんな場所があったらよかった」

取材の終わりにそうポツリとこぼす田川さん。
田川さんの呟きには、うみそらがどんな場所なのか、その答えが詰まっている。

(取材・文/佐藤愛美)


田川 尚登(たがわ ひさと)さん
認定NPO法人横浜こどもホスピスプロジェクト代表理事。神奈川県横浜市出身。
1998年、次女のはるかちゃん(当時6歳)を小児脳幹部グリオーマで亡くす。娘の死をきっかけに、NPO法人スマイルオブキッズを設立し、2008年に病児と家族のための宿泊滞在施設「リラのいえ」を開設。2017年にNPO法人横浜こどもホスピスプロジェクトを立ち上げ、こどもホスピスの設立準備をスタート。2021年11月、日本で2つ目のコミュニティ型こどもホスピスとなる「横浜こどもホスピス うみとそらのおうち」を開設。

参考資料
・田川尚登 著『こどもホスピス━限りある小さな命が輝く場所』新泉社,2019年
・浜田奈美 著『最後の花火 横浜こどもホスピス「うみそら」物語』朝日新聞出版,2024年

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