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1人酒場飯ーその6「とりえへず、四つ木」

下町はやはり心に響くものがある。


特有の空気と言うものか、とにかく『生活しています』『人と人の繋がりがあります』という、懐かしささえ覚えるようなそんな空気である。



 下町の代表格と言えば、谷中銀座でお馴染みの谷中を中心とする谷根千。『粋』がよく似合う浅草、柴又等がすぐに浮かんでくる。だが、その中でも下町でありながらも『せんべろ』と言うワードを武器に呑兵衛達の楽園となっている街がある。京成線の一つである京成立石を中心としたエリアだ。



 何と言っても名店と呼ばれる店もこのエリアには多い。居酒屋探訪の第一人者太田和彦氏が書した「居酒屋大全」(1990年、講談社)の中で東京五大煮込みに数えられた煮込みの名店『宇ち多』。東京もつ焼き界の代表格「江戸っ子」。

 そして、鳥を丸ごと揚げた唐揚げが魅力の「鳥房」などが軒を連ねる。まさにこの界隈は居酒屋の魔境と言うべきほどに居酒屋があちこちにある。


  ところが、そんなエリアのほど近くに喧騒を忘れてさせてくれる駅がある。「四ツ木」だ。立石の人の賑わいとは異なり、賑わいの大元となっているのは多く立ち並ぶ住宅と町工場。新旧建物がぴっしりと肩を並べるようにして並ぶ様は、下町を絵に描いたような景色なのは間違いない。


 中央のメイン通りであるつばさ通りを彩るのは個人経営の店と、四ツ木出身の漫画家、高橋陽一氏の代表作キャプテン翼のキャラクター達。形をガラリと変えてはいるが下町なのに変わりはない。通りをゆっくりと歩くと、どこか昭和が見えるようだ。
そんな四ツ木のつばさ通りを進み、住宅街に足を踏み入れた時に奥の方にぼんやりと黄色の光が見える。


 見える光にすいっと吸い寄せられ、見上げるとそこに書かれた「のみ喰い処 とりあへず」の文字。やはりここも立石エリア、隠れた店があるものだ。


 とりあえずと言われれば入るしか無い。と思いっきり店へと飛び込むと、広がるのは8席ほどのカウンター席と4つのテーブル席、2階へと上がるための階段。少しばかり階段の急加減が期待の上がり具合を示しているようだ。この時から、胸が確かに高鳴っている。


 店を切り盛りするのはご主人と女将さん、そして配膳などを担当している店員さんの3人。この舞台には無くてならない役者が揃っている。


 カウンターではなく、テーブルをお願いして、腰を据えて世界を眺める。こうして見ていると、他のお客さんの注文や、何を置いているのかを整頓できる。これはただの個人的な感想ではあるが。


 気を取り直して、メニューをざっと眺めた後、カウンター上のボードに目を移し、さらにカウンターのネタケースに目線を移していく。魚が中心のようだ、マグロやカワハギ、イカ等時期のものも定番もしっかりと抑えている。それだけでは無い。目を通したメニューには牛スジのデミグラスソース煮込みや、ポテサラなどの洋風も揃っている。 


 この守備範囲の広さは驚異的だ。頑固そうなご主人が作りそうなイメージが湧かないがそれは思い込みなのだろう。こう言う店は魚でも、風変わりなものでもドストレートな美味しさを感じさせてくれる事が多い。


「とにかく押されているなら牛スジのデミグラスソース煮込みを………」と考えていると、お通しがやってくる。これが?と驚きに少し目が泳いだ。それはそうかもしれない。


お通しとして出てきたのは寿司だからだ。マグロの漬けの握りとサーモンの軍艦。日替わりでお通しとして出される寿司は変わるようではあるが、どちらも丁寧な仕事具合が透けて見えるほどに丁寧だった。漬けには漬けネタの丁寧な塩梅の味が染み、サーモンの軍艦にも叩きに混ぜ合わされた沢庵の歯触りが程よく馴染み、舌を楽しませる。


 初めから寿司で勝負するのは、握りに自信を持っているからだろう。その挑戦にまんまと乗せられ、いやが応にも期待は振り切れる。頼むならば、魚と行きたいがやはり気になった牛筋に行ってみるか、と注文してみる。合わせる酒もビールやチューハイ、焼酎に、日本酒と酒場らしいものが並ぶ。


 だが、その前に魚を食べておきたい。選んだのは冬場の旬魚カワハギと美味いよと勧められたしめ鯖。合わせるのはホッピー。恥ずかしい話、僕はお酒があまり呑めないがどうしても美味しい酒を呑みたい面倒なタチではある。お酒を一杯、そして料理をしっかりと言うのが僕なりの酒場での楽しみ方である。


 それはそうと出てきたカワハギとシメサバの盛り合わせは白と青のコントラストが冴える。無論、カワハギの肝との食べ方はこの魚ならではの濃厚さと淡白さを楽しむためには至極当然のことであるし、シメサバの締め方は軽めで身の締まりと鯖の脂のバランスも楽しい。魚の刺身だけでも、個性というのは見えてくるものだ。


 と、刺身を食べ終えた時に洋風の香りを漂わせながら、お待ちかねのものが目の前へとやってくる。牛筋がデミグラスソースの中で出番が来たか、とばかりに声を上げている。

デミグラスソース煮込みには主役の牛筋、人参、ブリッコリーが肩を寄せ合っている。まごう事無き洋食だ。どこから見ても洋食だ。口に運べば分かる。牛筋の身の解れる柔らかさ、デミグラスソースには全てが溶けた旨味が重なって、満足させる。大正解だった、と自分の英断を受け止めながら全てを平らげる。いい店を見つけた自分へのご褒美だ。


勿論、その後も海老しんじょなどで仕事の丁寧さと、心意気を楽しみながら時間を過ごした……。
いざ会計、の前に女将さんからこんな話を聞いた。


「毎年、一回福島県からここに食べに来てくれるお客さんがいるんですよ」
ええ、それはそうですよ。初めての僕でも何度でも通いたいぐらいに舌と心が満たされて、自然と故郷のように思えたのは初めてですから。そんな余韻を残して、店を後にした。


今回のお店

とりあへず
住所 東京都葛飾区四つ木2-8-8
電話番号 03-3697-6306
定休日 火曜(祝日の場合は翌日休み)
営業時間 17時30分〜23時

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