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進学のススメ2「なんとかしなければ」


「なんとかしなければ」


2020年4月修学支援新制度が施行されます。施行を前にして、国立大学の授業料金設定の自由化について、文部科学省が話を始めたようです。国立大学が独立採算制になって以来、自由化されることは予測できたことです。ですが、わかっていたこととは言え、問題はこれからどれだけ適正な授業料金が設定されるかで、それぞれの大学がどのような考え方で授業料を決めるかはそれぞれの大学の判断に委ねられます。自由化の後に、各大学は検討に検討を重ねた上で、学生の立場に立った、学生ファーストの適切な金額を設定して欲しいと思います。とは言ってみても心配です。理由は下で具体的な話をしますが「粗」があるからです。大学内部の教員に痛みが伴わないように、痛みが全て学生の方に向かうような設計思想で金額が設定されないことを祈ります。

自由化によって、国立大学の授業料と私立の大学の授業料との差がなくなるのも時間の問題のような気がします。私が思うのは受験倍率が高く学生の人気のある大学は授業料を上げずに定員を増やすこと。改めてお話しますが、国立大学の中には1学年100人に満たない学生数の大学もあります。定員を増やすことが可能な大学は定員を増やすべきです。又は教員を減らすこと。学部、大学を統合することなどの内部の痛みを伴う改革も考えるべきです。

内部が無傷でいる代償が全て学生に降りかかる。そのようなことがまかり通る状況が仮にあるのなら、それを見逃してはなりません。大学は既得権益の世界です。彼らには既得権益を只々守るだけの判断を自粛させなければなりませんし、その為には周囲が声を上げるべきだと思います。学生ファーストではない値上げは社会的に許されてはなりません。

国立大学は安かろう良かろうという大学も多いです。優秀な学生は大学に何かを教わるでもなく、学費が安いから通う。そのような大学は多いです。それを大学が自覚せずに学生の授業料を上げるとどうなるか?良い方ばかりのシナリオを描くのではなく、悪い方のシナリオもしっかりと描いて授業料を値上げするならして欲しいと思います。授業料を上げたら潰れた。そのような惨めな姿は見たくはないものです。

施行されて間がない新制度について私以外にも声を上げている方たちがいます。私なんかよりも、とっくの前に一生懸命声を上げている人たちです。
新制度ではこれまでよりも支援される対象となる所得の水準が下がりました。下がったのでこれまで授業料の減免を受けていた学生達は支援を受けられなくなりました。当然ですが途中から支援が受けられなくなった学生達は困ります。そして彼らはすぐに声を上げました。これについて国は急遽、これまで減免されていた学生たちは同じように減免されるようにしました。当然だと思います。

この現象が如実に示すのは、今回の施行に当たるプロセスの「粗」です。事前に考えればこのような事態になることは想定できることは容易です。それを議論し、付帯事項として盛り込めていない。私が動かなければと思い至ったのは他にも簡単に見つかる「粗」があるからです。

というわけで私は国に文句があるのですが、簡単に言えば、仮に、私が今大学生だったらこれまでされていた支援が全くなくなっています。私の場合は授業料を全額免除されていましたから、これが突然免除されなくなれば困ります。ただ、当時の自分であれば寡黙でしたから不平不満は言わずに黙って受け入れたと思います。でも、今の私は生徒のことが頭によぎります。免除を外された生徒達は優秀です。どこからどう見ても優秀なのです。彼らはやはり黙って黙々と努力を重ねるタイプが多いので、おそらく声を上げない。彼らを長年指導者をしてきた眼で客観的かつ冷静に見ても、稀に見る優秀な学生が多い。そのことを知っている私はこの状況を目にして黙ってはいれないのです。「なんとかしなければ」と思います。本当に。


「声を上げなければ」

これまで支援されていた高校を卒業してから2年以上経過している学生への減免がなくなりました。私は彼らが支援対象で無くなったことについて、全く賛成できません。対象になるまで声を上げ続けるつもりです。
この件についてsnsでつぶやいていたら、世の中の色んな方の賛否両論の意見を頂きました。暇つぶしにいじられたり、ディスられているものが多かったように思いますが、でも、言われていることはどれも正論だと言えるものしかありません。なので本音は兎も角、どれも参考になるつぶやきなので、一つひとつ考えてみたいと思います。賛否の否定の意見の方には、そもそも進学の必要がない。との意見があります。そのような意見があることも当然です。中には労働力が減ることを懸念される意見も。
私はやはり、低所得者は高所得者と同じように高等教育機関で学ぶ機会を得られるようにしなければ低所得は今の生活から抜け出すことは難しいと考えています。私自身おこがましい事を言いますが低所得者から波はありますが抜けた人間です。私が低所得者から抜けた手段は進学です。進学が全てではないことはわかりますが、私の選んだ方法は進学でした。なので進学を取り巻く周囲の様子や十分な所得を得るまでに至るプロセスなど諸所にわかる所があるのです。それを皆さんに理解を頂く為に声をなければならないと考えています。


私は授業料を全額免除されました。国に文句をタラタラ言いながら、今の自分があることについて国に感謝しています。国にはもっと良くなって欲しいのです。低所得から抜けることは大変です。進学以外にも個々には何らかの方法で低所得から抜ける人が出てきますが、このままでは低所得を全般的に俯瞰してみると、低所得者全体はやはり現状のままでは低所得者から抜け出せないと考えています。彼ら自身に与えられている環境がそうさせています。そして、相当な豪腕を用いない限り、個人の力でその壁を破ることは困難です。この壁を破る1つの方法が今施行された修学支援新制度だと思います。「進学の必要はない」との意見を頂きますが、私は低所得者が低所得から抜け出せるようにする為に私は進学を肯定したいと思うのです。



「進学肯定論と進学絶対主義。そして進学否定論と進学相対論(これらの言葉は造語です)。」

世の中に進学を肯定する話を切り出せば、程なく進学を否定する話が出てきます。出てきた否定の話の中では私は進学が絶対のように話していると捉えられてしまいがちですが、私にそのつもりはありません。
進学は肯定しますが、絶対と言い切れるものではなく、進学以外の選択肢と照らし合わせて、個人がどれを選ぶかという自由意志で決定されるものでなければならないと考えています。

個人にスポットを当てて進学か否かを考えた時に、進学しない方が良いと言えるケースもあります。どのような意見が上がるか想像すると、個人にスポットを当てて、地域にスポットを当てた時には、進学か否かのどちらが多いかとも言い切れまないと思います。地域によっては進学しない人が圧倒的に多い場所もあるので、進学か否か、地域によって常識は違います。

日本全体で見た時に、私は進学肯定論者です。つまり、個々や地域別に考えれば進学が否かは言い切れませんが、日本全体で見た時には進学を肯定します。具体的に言えば日本では希望者は全員が大学に進学できるようにするべきだと考えています。そう言った意味では進学絶対主義です。

「何歳になっても学ぶことで人は成長します」


人の発育段階にはとても大きな個人差があります。
特に気をつけなければならないのは日本語の能力だと私は考えています。
この日本語の能力は遅ければ40歳を過ぎて成長し始める場合があります。私なんかはその口です。私個人で言えば英語はまだその機会が来ていません。
 40まで学生をやらせろ、と言いたいわけではありません。学ぶ意欲がある人間には高校を卒業して2年くらいまでの間は誰でも大学まで進学できるようにするべきです。そして高校を卒業して何年経っても学ぶ意欲のみならず優秀な者には何歳になっても大学、大学院、博士課程で学べるようにするべきだと考えています。
このような話をすると反発は必至です。色んな声が上がります。


「低所得者層は日本に必要な労働者?」


このような話をすると反発は必至です。色んな声が上がります。
心ない話では、裕福な家庭にある方は学ばせることによって労働者が減る。私たちが楽をして裕福な暮らしができるのは学校を出ていない労働者がいるからだ。というものもあります。但し、匿名のこの意見は裕福な現状を守りたい保守層の方の一部には現実的にある正直な意見です。これに賛成する人も少なくはない。言うまでもなく私はこの意見には反対です。このような発言をされる方は、蓋を開けてみると、親御さんのお金で毎日パチンコやスロットに興じながら大学に通う学生だったり、毎日ゴルフ三昧の経営者の方だったりします。時間とお金のある中で自由に好きなことをするのは否定しません。私も、週に4〜6日ジムに1日3時間程います。でも、私が学校を経営していて生徒を見ているからかもしれませんし、私が低所得の家庭の出身だからかもしれませんが、低所得者層の問題から眼を背けることができないのです。
裕福な高所得者の中には低所得の家庭の大学生に支援することで自分たちの暮らしが何らかの形で圧迫されることを懸念している方もいます。はっきり言葉にして表現すればこのようなことになりますが、でも、暗黙の了解で自分が裕福な暮らしをするために、学ばない労働者が必要だと考えている人は全般的に多いと思います。国立大学の授業料値上げに関しても、この見方が見え隠れしています。

低所得者が学びの機会を得ることは、それだけ低所得者から労働者が減ることを意味します。そしてそれは高所得者から労働者に転じる人が増えてくることも恐らく意味しているのだと思います。高所得者の家庭に生まれてくれば、学ばず、労働をせずとも裕福な暮らしができます。そのような高所得者は大勢います。高所得者が皆そうかと言えば違いますが、低所得者には想像しないような余裕のある生活が高所得者の世界にはあります。

一方で低所得者が皆真面目かと言えばそうではありません。低所得者ほどパチンコやスロットなどのギャンブルに嵌る人は多いです。私も昔嵌ったことがありますが、あれはお金がないと嵌るのだと思います。それ以外に収入を増やす手段がないのです。もっと稼げる方法があれば多くの場合やりません。ギャンブルは簡単な作業で報酬を得ることが可能です。学びを通じて報酬を得られるようになるには年月がかかります。学びの年月や苦労と比較するとギャンブルはとても簡単な作業ですぐに報酬を得る経験ができます。成功体験を繰り返すことでギャンブル以外のことが頭から消えて、ギャンブルの成功体験の繰り返しに頭が湿潤されます。心がフロー(英Flow)に入り、頭がギャンブルのことだけになります。心が成功体験に高揚すると洗脳状態に入ります。そして程なくお金が無くなってしまいます。

今回のお話の本題は進学肯定論です。
でも、その前に進学が全てではないというお話をしなければ話の本意を皆さんにお伝えすることができないのです。
そう言った意味では相対的に話をしていかなければなりません。
大げさな言い方をすれば進学相対論です。
3へ続く

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