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進学のススメ3「進学が全てではない、でも格差を無くすことが学校にはできると思う。そしてこのままでは日本のGDPは上がらない」

「進学が全てではない」

私の周りに大卒は殆どいません。多くは中卒です。中卒でも生きています。
当たり前か・・。でも、私の育った環境だと中卒でも生きていけることは良くわかるのですが、私の育った地域の外の世界だと中卒の人を見る機会すらない人の方が多くて、中卒の人と出会う機会は殆どないのではないか?と思います。
私は予備校で講師をしていますが当然ですが予備校の生徒に中卒の生徒はいませんし、美術系の予備校なので多くの親御さんは私立美大の年間200万の授業料をお支払いできるご家庭です。
一方で私の育った環境ではサラリーマンが珍しい存在。クラスの中でも安定した月給を貰う家庭は珍しく、家で親が「あの子の家はサラリーマンだから」という表現を「お金に余裕がある」という意味でしていました。事実、サラリーマンのご家庭の家は立派で色々とキラキラしていたのを覚えています。一方で皆さんには珍しいかと思いますが、サラリーマンではない友達の家に行った時に壁に寄りかかったら壁が軽くはめ込んでいるだけで外れてしまって家の外にはみ出して焦ったのを覚えています。他には、今考えると珍しい光景ですが、ある友達は川の真ん中で盛り上がった中洲の土の上に立てた家に住んでいました。
わかりやすく言えば私の育った場所は北九州です。派手な成人式の。我が家はあの北九州でも貧しい方です。
我が家の過半数は中卒です。親族の中で大卒は私1人。半分中卒、半分高卒、その中で私一人が嫌味にも超一流大学卒です。
私は大卒であることを自慢したいわけではありません。私の中に大学なんか行かなくても良かったとの思いがこびりついていることも言っておかなければなりません。生まれ育ちのままで生きていけるなら、それが一番良いのだと思います。

私の家は蕎麦屋でした。私は蕎麦アレルギーなので蕎麦をまともに食べたことはありませんが、私は蕎麦とうどんを作る様子を見て育ちました。つまり、私が古くから、体で認識している人の働くとか、学ぶ姿は蕎麦やうどんを作る姿にあるものなのです。昔の私の場合、体が知っている「学ぶ」と言う事はそのような事でした。そのような私が他の世界の人たちと同じように国語や算数の勉強をするなどと言うことは、馴染みなどあろうはずもなく、これもまた当然アレルギーを起こすことなのです。実際に私は高校を入学した後から、中学受験で嫌になってしまったせいもあると思うのですが、体が勉強アレルギーを起こし、文字を全く記憶できなくなりました。


私の家は殺伐とした家庭でした。小学校の時はテレビは一切見ることは許されません。遊びに行くことも、友達を一人作ることも許されません。両親は、毎日、東大、早稲田、慶応を連呼します。そして母親は殴ります。父親はしたり顔と神ような声のトーンで連呼しますが、それぞれが東大がどのような所で何ができて、卒業したらどのようなことがあるのか?そのような話は何一つわからないので一切ありません。兎に角、今の貧乏な生活を抜け出せる。それしか言われたことはありません。私が小学生だったのは40年前、当時は受験戦争という言葉がありました。そして我が家だけでなく、東大早稲田慶応というフレーズは他所でも耳にすることができました。

まず、ここで結論をお話しておきます。東大と慶応には貧乏、つまり、低所得の家庭の人間は殆どいません。つまり、東大と慶応の中で学生同士が低所得の友達を探すことは困難です。早稲田に少しいます。私の出た東京芸術大学にも、私と同じレベルの貧困の家庭は見たことはありません。なので本当に無理なので、無理してまで進学をする必要はないと思います。でも、私が皆さんに話していきたいのは、今の日本の格差を無くすには、誰でも進学できるようにしなければならないということです。そのための国の制度を変えていこうとする動きは、勝手ながら日を増して強くなっていくと思います。その動きの流れを少しでも自然に流れるように、一人でも多くの方に認識して頂くことで私のようにアレルギーが起きないようにするために今回のようなお話を書いていこうと思います。

低所得の家庭、所謂貧困層の人間は東大早稲田慶応といくら親御さんが子供に連呼しても、実際に合格している子は私の知る限り一人もいません。つまり、この状況は日本の格差社会の構図を綺麗に描いています。格差を無くすには日本人皆に機会を与えるということではありません。機会なら、すでに受験は可能なのでそういう話ではなく、進学が可能になる環境を与える必要があるという話です。

私は美術予備校を経営しています。
進学が全てではないので、ここで私は進学できる環境にない方はアートの世界で進学せずに成功させる為の指導をします。

アートの世界では何も高い授業料を払わなくとも、初志を貫けば成功することは可能です。進学せずに成功に至れる力があれば進学する必要はありません。
と言いつつ私はやはり進学肯定論者です。矛盾するじゃないか!とお叱りを受けそうですが、つまり・・。
進学が全てではないと言う声は多いです。それに反対はしませんが、やはり進学に意味がないという意見には絶対的に同意できないのです。


「進学に意味がないという意見には絶対的に同意できない」

進学に意味がないという意見に絶対的に同意できません。その理由は、進学には進学の良さがあり社会を変える力があります。そのことを世の中に少しでも広めなければならないと切実に考えているからです。
低所得の家庭の子供がいますぐに東大早稲田慶応に進学できるようにするのは不可能だと思います。でも時間をかけてでも学べる環境を作ればそれは可能になります。それを作らなければ、低所得の家庭の子供の多くは低所得から抜け出すことができないのです。国のことで言えば日本のGDPは上がりません。

進学によって得られる能力は家庭の中で子供に伝播します。そのサイクルが完全に定着していることによって日本では高所得者と低所得者の全般的な格差は一向に無くなりません。家庭ごとの所得格差は子供の偏差値にそのまま現れます。私はこの格差をなくす機能を学校に持たせるべきだと考えています。格差をなくすことが学校にはできるのです。
そして少し余談ですが、私の携わる美術の世界には所得に応じた偏差値の導入が必要です。今までベールに包まれてきていますが、偏差値と同じく全般的な所得の格差は間違いなくあります。その格差を偏差値に置き換えるのです。


「格差を無くすことが学校にはできる」


今の私があるのは、1つには義務教育があったからです。つまり日本は小学校と中学校を義務教育にしているので、私のような家族の半分が中卒の家庭でも学ぶことに触れる機会が得られています。義務教育と言わずとも誰もが大学まで進学できるようになれば日本は大きく変われるはずです。

今の私があるのは義務教育があったからです。私は殺伐とした家庭で育ちました。私が殺伐とした家庭に育ちながら、人としての暖かさを知ったのは、小学校があったからです。小学校で褒めて褒めて褒め殺しされながら、私は人としての暖かさを育んでいきました。当時の私は勉強など全くできない騒がしいだけのお調子者です。家での孤独を解放する場、それが当時の私にとっての学校でした。担任の先生は私がなぜ騒がしいのかクラスの皆に説きました。そして褒め殺しです。私が小学校の褒め殺しによって暖かさを育んだことに気づいたのは私が教える仕事についてからです。学校が人としての暖かさを育む。それが社会での成功や高い学力へどうのように関係があるのか疑問に思われる方は多いかと思いますが、人の暖かさを育むことは、不安の状態にある心を、リラックスの状態に移します。不安な状態は何事も上手くいかないような気がする。何も心配することはないのに失敗するイメージのスパイラルを生みます。一方でリラックスした状態は、これで良いんだ〜という成功のスパイラルを生みます。そこから気持ちをコントロールできる状態に入り、成功体験を繰り返せるフロー(英Flow)に入ることができます。人の暖かさを育むことのできない、不安の状態に心がある時は勉強は上手くいかないのです。低所得者の多くは心が不安の状態にあります。成功しないので、逃避しようとします。悲観的な思考になり、何をやってもダメなような気がする。そうすると勉強は手につかないのです。 

私は進学に意味がないと言う意見には同意することはできません。同意できない理由は私が低所得者の家庭に育って、大学に進学し、多くの高所得者に触れて、否応ない差があることを知り、差を埋める1つの方法としてどう考えても、個々に個人的な成功をおさめることに期待するのではなく、格差社会その物を無くすには「進学」又は、「学び」を外すことができないと考えるからです。仮に義務教育がなければ今の私はありません。これからの世の中を変える為に必要だと私が考えるのは日本は、日本人全員を、希望者は大学に進学できるようにすることです。

私の両親は文章を1行もまともに書くことができません。小麦粉を練るだけで生きてきたので当然です。1行の中で話が2転3転します。つまり普通の人が読んで意味が理解できる文になっていない。分析をすれば2転3転する中に法則があり、意味を理解することはできます。
又、私の両親はまともに会話をすることができません。1つの会話の中で話が2転3転します。そして会話には文章と違い相手がいますが、相手は話の意味を正確に理解することができません。同時に本人はその相手の言うことを正しく認識することができません。このような会話は折衝力が働きません。私の両親は毎日殺し合いになろうかという勢いで、夫婦喧嘩というようなものではなく、顔を会わせる度に悪魔のような形相で罵り合い、殴り、噛みつき、争っていました。


会話が成立しない中で私と父の会話には法則があります。父は私の質問に答えたことがありません。何を聞いても違う返答が返ってきます。私が成人してからは少しまともになりましたが、幼い頃は私の要求の多くは彼の頭に届いたことはありません。

話が2転3転する原因にはいくつかあります。1つは不安です。低所得者独特の不安が本人の心の中にいつもあります。そのような状況にある人を改善させるには気持ちをリラックスさせ、コントロールし、少しづつ会話や文章を上手く繋ぐ成功体験を繰り返させれば少しずつ文章と会話ができるようになってきます。

進学が全てではない。と言われる方の現在の生活の状況を聞かせて頂くとなるほどいくつもお店を経営されていて年間に数千万の収入がある。
など、そのような成功したお話をお伺いすることも多いです。それについては納得できます。

但し、進学しなければできないことがあります。
例えばお医者さんは進学しなければなることはできません。

後は、わかりづらい例ですが、やはり学歴の壁はあります。
これを超えることは格差社会の問題を変える為には必要なことです。

格差社会がまず生むのは日本語の壁です。この壁は私が所謂一流大学を出て肌で感じて確信を持って言えることです。日本では日本語、つまり国語能力が勝ち組に入るか負け組に入るかに大きく影響します。

低所得者の家庭では日本語能力が育ちづらい。逆に高所得者の家庭では日本語能力はスムーズに高まることが多くなります。私のこの文章もいい例です。わかる方にはとても拙い文章です。

高所得の家庭の多くはお母さんが専業主婦です。じっくりと家で子供と触れ合う時間を作ることができます。一方で低所得者の家庭の多くはお母さんがお勤めされています。お勤めされている時間が保育園や幼稚園の時間よりも長ければ子供は親御さんと触れ合う時間を十分に取ることができません。

私はお話している通り低所得者家庭で育ちました。
幼稚園には行っていません。
保育園にも小学校に入る前にやっと入れました。
保育園に入れなかった理由は入るお金がないからです。両親は私を預けられる時は大家さんの家に預けました。
子供の成長において年少さん、年中さんの時にお母さんが側にいてあげる事は大切です。私はディスレクシアです。そしてLD、学習障害です。幼少期に大人と言葉のやり取りができる環境になかったことが大きな原因の1つだと考えています。特に私の家庭は職人気質の家庭でした。父方の祖父とは小学校の低学年から高校卒業まで隣同士で住んでいましたが、一度も会話を交わしたことはありません。祖母は一度だけ会話をしたことがあります。父は祖父に逆らえず母と子には一切お金を与えません。父は私に与える食事はたまにですがエサと言いました。
東大早稲田慶応、私は父から毎日それだけを連呼されて育ちました。
いざ進学の時、その時に親からの経済的な援助は一切なかった。
今の就学支援新制度を見るとその時のことが鮮明に頭に蘇ります。これを助けるのは国の制度しかない。私はそう考えています。今の日本は世界的に見て子供が少ない。OECD35カ国の中で日本は子供の数が最も少ない。子供は国の財産です。日本のGDPを上げて国を豊かにするためには、日本の子供に教育の機会を与えることが大切です。

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最後に、この資料は財務省が1人あたりの日本の教育に関する公的支出は他国と変わらないと主張する為に出した資料です。そもそも在学者数が世界で最も少ない日本がGDPをさらに高めていく為には他国以上に公財政教育支出、つまり教育に関する公的支出を他国以上に上げなければならないことは言うまでもありません。

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