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「誰でも魅力的な線を引くことができる。特別な才能はいらない。必要なのは常識です。」FDL Tips 12−5−1−6

誰でも魅力的な線を引くことができる
たった1本の線の中にもとても大切なことが沢山詰まっています。
そこを覗いてみた時に駄目な線や無駄な線など1本もありません。
線はその人の生きる姿そのものですし、その人のことを沢山物語っています。
それを見えなくさせてしまうのは褒賞や成績評価です。

誰でも魅力的な線を引くことができる。
つまり誰の線にも実は魅力があります。そこに優劣をつけてしまうことが話をおかしくするのです。

その魅力を説くことは残念ながらアートの世界にできる人はいません。いないばかりか、アートの世界は線の魅力が誰にでもあることに気づかずに、コンクールなどによって可能性が開くことの邪魔をしてしまっていると私は思っています。

線の中にある魅力は常識です。常識として共通認識できることだから共感しあえるのです。共通の常識がなければ通じることはできません。だから常識でいいのです。
線に対して持ちうる常識は誰にでもあります。でもそれを引き出すにはその事に対する興味を引き出し、関心を持って頂かなければなりません。皆さんが持っている常識を引き出して、線から何が見えてくるか洞察、推察、考察すれば良いのです。それがないからアートは線という宝と皆さんという宝を持ち腐れさせています。今のアートはその状態です。
この状態は才能を特別視しているから。才能は誰もが持つものと言う前提で物を考えないから陥っています。

誰もが持つ才能をアートの世界の誰も証明出来ないというかする気がないので私がやります。皆の才能が雲隠れしてしまったのは巨匠などの特別な存在を作り上げ奉ってしまった功罪です。


誰にでも常識があります。
アートの才能は常識です。普通の認識。それを言葉のように表現するのです。線の中には実に色んな常識が、認識が現れます。

私の線はガンダムのようになったり、カンディンスキーやクレーなどの抽象表現主義の概念が入ったラフな線になったりします。
体調がいい時は細密になることが多いですし、体調が悪い時ははみ出したり、太くなったりすることは多いです。
何かを再現したり描写したり工芸的に美しい処理を施そうとしていなければラフな手仕事になります。
構図は自由奔放に描くことが多いのでそのように描く時は気分がとても晴れやかです。私は首がしまるような、奴隷のような、悲壮感を漂わせるような気分で描かないようにしています。
このようなことがざっくりと言った常識です。でも、この常識は、皆さんが音楽や文学やスポーツに触れる時と同様にかなりミクロな細部にまで拘り抜いています。音楽や文学やスポーツと違ってアートの世界はかなり遅れています。特別なものとして奉りすぎた結果、皆さんには犬猿されてしまっています。
私は線のことを語り始めるとこの文章のように無限に語り始めます。
このような深い関わりは学習障害のある私ごときができるのですから、皆さんにとっては造作もないことです。
問題はアートの側の人間が皆さんにこの魅力を語らない、語れないことです。
特別な才能ということから目線をズラして、誰にでもできることだと思って見てみると、実に色んなことが見えてきます。特別な才能という言葉は物事を見えなくさせているのです。皆、普通に見ればいいのです。
アートの中の人間が心配しているのは作品が売れなくなることです。このような発言をする私でも作品は買います。良いものとして買います。でも、特別なものとしては買いません。例えばバスキアの作品を買ったとしても特別な才能のある作家の描いた作品としては買いません。普通にバスキアの作品と深い会話をしたいと思えば買います。金額や、巷にある噂や、評論は関係ありません。本人の起こした文献と作品を見ながらじっくりと心の眼で対話するのです。
余談ですが、若い作家が作品で食べられるようにするには、作家を特別扱いしてはなりません。それで無理がでます。そうではなくて、パン屋さんのパンが特別でなくても皆が良いものとして買うように売れば良いのです。残念ながらアート作品よりもパンの方が皆さんに受け入れられ、深くこだわられています。その常識の部分がアートには欠落しているのです。パンの方が絵よりも自由に自分の拘りで作っている人は多いと私は思います。絵がパンのようになれればいいな〜と思っています。

線によってその常識は見えるので認識を語り合うことができるのです。それが線の魅力の一つです。その人の認識が織り成す美しい世界。
そこに特別な才能だの、賞だの、成績だのが入り込む余地はありません。
正しい会話の中に評価は全く必要ない、無駄以外の何者でもないものです。
線に誰の線が正しいだの何だのはそもそもないのです。常識を否定されてしまえば手がこわばる。当然のことです。

アートはしばしばアート界の常識を持ち出し、大上段に掲げて、一般的な認識を否定します。それによって皆さんは「はい、そうですか」と従うしかないので、一般的な認識の皆さんは思考停止します。

皆さんを思考停止させ手をこわばらせることによってアートの世界は自分たちが特別な存在だと演出し、利益を得ています。でも、実際にアートの世界の認識がそれほど大したものかと言えば全く大したことはありません。悪いものではなく、良いものであることは間違いありませんが、悪いのはそれを特別なものと誤魔化している所です。それで皆の手がこわばり線の会話が成立しなくなっています。
この誤魔化しは近い将来バレます。というか少なくとも私は暴露しようとしている最中です。

絵を描く時は自分の認識でいいのです。自分の常識でいい。自分のわからないことをしようとすると当然、手はこわばります。
アートの世界が特別な才能の世界だと歌う馬鹿者はまだまだ沢山います。
それがピュアでも正義でもなく、一般の皆さんの不可解を生んでいるにすぎないものだとも気付かずに、洗脳され、未だに連呼する声は止みません。
いずれバレた時に一番苦しむのは洗脳されている人です。自分が特別だと信じていたのに何でもないものだと理解できた時の落胆を想像するとそれがどれ程のものか?考えると私は耐えられません。
特に障害を持っている人の多くがその犠牲になっています。
真実を明らかにすることを急がなければなりません。

自分の常識の中で絵は自由に描いて良いのです。
それを邪魔する輩を私は駆逐しなければならない。
絵は皆が描いて良いものです。

まずはお父さんやお母さんが小さなお子さんと絵が描けるように。
子供の前で絵を描く事を躊躇う親御さんは多いです。楽に楽しく描けないようにしたのは主に教育です。美術の成績が悪かった親御さんの多くは子供と一緒に絵を描く事を躊躇います。学校は何を植え付けてくれているのですか?と思います。

成績評価などいりません。誰かの絵を特別なものとして扱うこともいりません。そして学校の成績評価を特別なものとして扱う必要もありませんし、生殺与奪の権限を与えて先生を特別な存在と演出する必要も全くありません。実に情けない存在です。

例えば障害がある方の絵を特別なものにしてしまえば小さなお子さんや大人達の絵を評価することが出来なくなります。小さなお子さんの絵と大人の絵と障害のある方の絵と何ら変わりはありません。つまり障害のある方の絵を特別なものと評価すると同時に類似というか同様の小さなお子さんの絵と大人の絵は話の遡上に揚げると不都合なので隠蔽されるのです。今はそうしてでも障害のある方の絵を特別なものとすることが正義です。誤った正義であることは言うまでもない。

小さなお子さんの絵と大人の絵に、つまり誰の絵にも魅力があります。アートの世界はそれを阻害しています。
学校。美術館。画廊。市場。芸大美大が特別な才能という虚構を歌うことを辞めない限り、社会がアートの価値を認識し、それが常識となる日は延々と来ないでしょう。

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