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美術の独学も良し、「独力」養成のすすめ

「美術の道」は学校に行かずに自分一人でしっかりと勉強すれば実力が身につく世界と言えます。そのためこのページを読まれる皆さんに独学でプロを目指す人にも十分に上手くいく可能性はあることを最初に伝えておきます。独学でも上手くいくのだとすれば美術の道において学校の役割、特にクマビの役割とは何か?疑問に思われる人がいるかもしれません。美術を教える生業である美術系の学校にはその存在意義が当然ありますし、当然クマビにも存在意義があります。このHP(この文章はkumabi.comから抜粋しています。)のページではクマビの存在意義についても触れたいと思います。クマビは独学を認め、独学の姿勢を推奨しながらも、クマビはクマビの大きな存在意義を自負しています。興味のある人はこのページを最後まで読んで下さい。

ここでご紹介するのは独学と独力(造語です)養成の処方箋です。まずは独学者(造語です)がよりよい独学に繋がるように独学に生じやすい問題を上げて、独学が上手くいくようにアドバイスしています。次に、独学の処方箋を出しながらもあくまでこのページはクマビの広告なので新しいクマビ生が増えるように考えて作っていることをご了承ください。そしてすでにクマビに通っているクマビ生が独力(造語です)を上げる切欠になるように考えています。

ページの内容では、独学者には美術の道を進もうとする人のためにデッサンについての処方箋を少し出しています。クマビに通う生徒には自学自習の意味や学校で教わることの意味を説いています。内容の中で一番伝えたかったのは、クマビ生に対して大成するためには学校に通いながらも独学できる力強さを持つことが必要だということです。

クマビはクマビ生に対しては「独学で学んだ人には辿りつけない領域まで力を高めること」を狙って教育を実践しています。狙うわけはクマビが指導全般で「天才」を育てることをコンセプトにしているためです。そのコンセプト達成に必要な指導の一環が「独力」を高めることです。独力を高めることでクマビで学んだ学生は独学で学んだ人には辿りつくことができない領域に、スッとに足を踏み込みながらも、独力で自分の手で新境地を切り開いていくことができます。独学者に負けない、学校を出なければ現れないタイプの天才はいます。独学者に負けない「天才」になるには独学で学んだ人には辿りつけない先人の作り上げた領域を通り、その先にある前人未到の新境地に足を踏み込めなければなりません。誰もまだ見たことのない新境地の先に進むにはこれまでに学んだことを最大限に生かしながら、高い独力を発揮できるようでなくてはなりません。

「美術の世界には独学者が大勢います」

美術の世界には独学者が大勢います。美術の世界の現状としては、意外にも多くの人が学校を出ずに独学して美術の仕事の世界に足を踏み込んでいます。美術の世界で仕事をしている人の一部は高額な学費を払って美術系の学校を出ていますが、その一部以外の美術の世界で仕事をしている人の多くは学校を出ているわけではありません。学校を出ていなくてもしっかりと仕事をして生活していくことは可能です。只、美術の学校を出ていなければ足を踏み入れることができない領域があり、学校を出ていない人の多くはけっして壊すことのできないバリアを感じ、悩んでいます。

バリアの一つに大手の一流企業に就職するということがあります。大手の企業には学歴が関係することは一般の大学から就職する事情と変わりません。独学者がバリアに負けずに仕事の規模を大きくして大成するには自分の作品であるマンガやデザインや絵画で評価を得なければなりません。大成することは大変ですが、真っすぐ目的に向かって前に進むことができれば企業で人に雇われながら細かな仕事をして収入を得ていくよりも生活は安定し、先行きの不安は払しょくされ、自分の好きな仕事ができます。

「自分一人の時に勉強をしたり、絵を描いたりできますか?」


美術の世界では画学生が絵を描くのは当然と考えることが普通かもしれませんが、美術の学校には「自分一人の時に勉強できて絵が描ける人」と「自分一人の時は勉強が出来ずに絵が描けない人」に分かれます。中には自分一人の時に勉強はできなくても絵なら描くことができるという人はいますが稀です。例えば宿題を出した時に学科のテストを自宅でやってこない生徒は絵の宿題もしません。
自分一人で勉強できる人は1人でいる時は黙々と絵を描きます。芸大美大生及び美術系の専門学校生の中には1人でいる時に絵を描くことができないという人が沢山います。特に専門学校生は半数以上はそうです。1人でいる時に絵を描くことができない人は学校にいって、皆が絵を描く雰囲気の中にいる時や先生に怒られれば手が動きます。東京芸術大学の学生でも一人の時に描けない人は沢山います。そういったタイプの学生は学生の間しか作品を作ることができず、1人でいる時は絵を描くことが苦痛で制作できません。本来、絵を描くことは人から強制されるものではありません。しかし、現実的に描くように指導しなければ自発的に描けないタイプの学生はいます。ここではあまり説明しませんが、美術系の学校の学生は自発的に描ける生徒と描くように指導されなければ描けない生徒の2つに分けられます。クマビでは自発的に描けるようにするための手立てを講じますので描けるようになりますが、多くの学校では半数程度は手が動きません。
このような傾向は美術の世界に限らず社会全般にあります。根本的な原因は幼児期の状況から探っていくと見えてくることがあります。このページを読んでいる人は自分の幼いころのことを振り返ってみると何かわかるかもしれません。

美術の指導の事を例にあげるとするならば子供の図画工作の指導から見える現象がわかりやすいかもしれません。子供は幼稚園の年少さん位になると環境や教育によって身に着いた個性が確認できるようになります。子供への図工の指導の際はこの個性を見極めることが大切です。子供の個性は細分化できますが、このページの話に合わせて少し大胆過ぎて乱暴ですが思い切って大まかに分けます。子供は大人の言うことを良く聞く子、大人の言うことをあまり聞かない子に分かれます。又、言いかえれば「大人の振る舞い」を身につけている子とそうでない子です。基本的には「大人の振る舞い」を身につけていなければ授業にならないので身につけさせるように教育します。但し、注視しなければらなないのは子供の自発的な行動です。「大人の振る舞い」ができる子の中には納得している子と納得できておらず強いストレスを感じている子に分かれます。強いストレスを感じている子を注意深く見ていると自発的に想像/創造したり、感覚を働かせて図工を制作していないことが見えてきます。想像/創造/感覚を働かせていない子供は大人との契約関係を守ることを念頭において自分に蓋をしています。

図工の授業時間では自分で自主的に図工ができる子とできない子がいます。「大人の振る舞いを身につけていない子」の中には図工の授業内容すらボイコットする子もいます。制作している子は自由にのびのび自主的に制作しています。「大人の振る舞いを身につけている子」は習ったことを踏まえて自主的に制作できる子と完全に手が止まる子がいます。
「大人の振る舞いを身につけている子」は言うことを良く聞く良い子です。但し、中には良い子でいることに徹する余りに自分を見失っています。自分を見失っている子の多くは失敗を恐れ、成功を導くための実験ができません。図工の授業の指導では失敗することの大切さを話して自分の感じ方や想像/創造を確かめながら制作できるようにしています。

「大人の振る舞いを身につけている良い子」は図画工作の授業の時に先生の指導を良く聞きます。但し、自分という領域がまだわからない子供は自分を見失っているため先生に何も言ってもらえないと手が止まります。先生の言うことをしっかり聞こうとするために、自分でイメージを思い起こしたり、描き方を創造する思考がストップさせています。先生の段取りを崩さないようにする配慮もあり、自分の思考は停止させています。自分の思考を止めながら絵を描く一部始終で強いストレスを感じています。一方で大人のいうことを聞かない子は図画工作のルールの中で何をどのように描いて楽しむか?自分の世界に入ってイメージしたり考えたりします。制作中はストレスを発散しています。

幼児に見られるこれらの傾向は小学生から大人になるにつれて顕著になります。年を追うごとに特に絵を描くことから心が離れていき、高校生頃になると授業の形にならない程絵を描くことに嫌悪感を示す生徒が増えます。このように分かれる傾向は美術系の学校の学生にもはっきりと表れます。


「人の言うことを良く聞く人の問題、聞かない人の問題、それぞれの問題に対しての指導」


絵を描く行為は想像/創造することが必要になるので、描く前に映像を頭でイメージを想像し、描き進め方を具体的に創造することが必要です。想像/創造する前の段階では環境を用意し、制作の原動力となるモチベーションがなければできません。モチベーションは作品の前にある様々な懸念から生まれます。自分の中にある懸念は場合によっては社会的に意味のあるものであったり、捉え方によっては単なる我ままにしか見えないようなものもあります。只、そのようなものが制作には不可欠と言えます。「大人の振る舞い」に意識を集中させると自分の中にある懸念が抑えられ、場合によって懸念がなくなります。懸念がない場合には想像も創造もできません。創造力が働かない場合には絵を描こうとしてもやみくもに意味なく手を動かそうとすることになるので、無意味な行為を心身が拒絶し強いストレスを感じます。いわゆる「や○気スイッチ」を押さなければなりません。スイッチが押されていなければ頭で絵を描かなければならないとわかっていても体が断固拒否します。絵を描こうとする際に強いストレスを感じるのは男性に多い傾向です。これを読んでいる男性の中にも実感がある人は多いと思います。自分一人の時に、自分の力で絵を描けるようにするにはクマビのように手が進まない場合の指導に強い美術の学校に通うか、強いストレスを凌ぐ忍耐力を付けるか、強いストレスを凌ぐ創造力を付ける必要があります。東京芸術大学を出た学生の中にも大学を出た後に描けない人が大勢います。このような状況ですが、このページを読んでいる人の中で自分一人でしっかりと絵を描くことができている人は忍耐力か創造力に自信を持って良いと考えます。又このページを読んでいる人で一人でいる時に手が動かない人はクマビで指導しますので習いに来てください。一人の時に絵が描けるように変わります。(東京芸術大学の学生でも勿論変わります)又、自分一人でしっかりと絵が描ける人の中には人の言うことを聞けないタイプが多いです。人の言うことが聞けない場合はビジネスで問題がおきることが多いです。指導しますのでクマビに来て下さい。

独学には向き不向きがあります。自分一人の時に手が進まない人は独学には向きません。おそらく、独学を可能にする独力を身につけれらる美術の学校は本格的に研究をしているクマビにおいて他にはありません(多分)。可能であればクマビに来て下さい。


「具体的でわかりやすい指導」


「美術の道」は自分一人でしっかりと勉強すれば実力が身につく世界です。しかし、美術の世界に限らず、大成した人の多くは人から学ぶ姿勢や、学ぶことの意味を理解しています。言うなれば自分で本を集めて読めばわかることでもわざわざ大学に足を運び、講義を聞いて学びます。それはなぜか?本ではなく、人の口から出た言葉によって学ぶことには本にはない意味や力があるからです。それに加えて美術においては活字にはできない事や細かな心理や絵具などの物理的な現象などは描いている様子や描いた作品の実物を見なければわかりません。言葉では抽象的であいまいになる表現が実習ではわかりやすく具体的に学べます。活字になる技法でも、生徒がその技法を施した善し悪しの判断は先生の眼で客観的に言ってもらわなければわからず、逆に自分でも自分の位置が掴めず具体的にどの程度良いのかわからないため、本当に良いのか確信を持つことができません。

「手塚治とデッサン」
美術の道の中でも特に自分一人の独学で勉強して成功する人が目立つジャンルが「漫画」です。漫画の世界は自分一人で頑張ることができる強い人間性「独力」を持っている人が多く、社会的に多くの需要があり、捨て身で目指す価値があるため、学生に限らずチャレンジする人が多い世界です。逆に漫画に強い興味がありながらも、リスクの大きい漫画の世界に向かうだけの勇気の持てない人が一歩後ろに引いて進路をイメージし、画家やデザイナーを目指す人が多いのが芸大美大です。芸大美大入試に集まる学生と接し、進路指導していると「大人の振る舞い」を理解した生徒が多く、堅実に進んで行こうとする姿勢が見えてきます。自分一人で勉強することには様々な難しさがあり、根深い問題もあります。根深い問題の1つに、「後ろ盾のない漠然とした不安感」や「客観的な評価が得られないことからくる自信の持ちづらさ」です。

例えば根深い問題の一例に、こんな話があります。漫画家の手塚治さんはデッサンを習う機会を持てなかったことに強いコンプレックスを抱いていたと言います。今思えばかつては社会で、又、美術の世界においても「漫画」いわゆる子供向けに面白おかしく図と言葉を巧みに合わせた表現手段は言葉/活字よりも価値の低いものとされ、本来の価値が理解してもらえず、漫画と同時に手塚治さんの画力も絵画と比較し低いものとして見られ、手塚さん御自身が実際に低く扱われたり、言われることがあったと想像できます。手塚治さん自身でさえ自分の画力に根底で不安感を抱く、そのような社会でした。そういった当時の社会では漫画家というだけで美術関係の例えば画家等の人間から低く評価され不当な扱いを受けます。当時の漫画の世界は公的な機関でデッサン力を証明できる組織。例えば歴史と伝統に守られた威厳のある「画壇」などとは距離があり、公の機関から正当な評価を受けることは難しいことでした。
現在でも公の機関と画壇とのパイプが太いために同じような状況が続いていますが、現在の東京芸術大学内部では漫画に対して寛容な姿勢で理解を示す先生も増え、東京芸術大学の授業では手塚治さんが若いころに自分でパースの勉強をするために制作したアニメーションを教材で使ったケースもあります。教材として使われるほど、本人の不安とは裏腹に、しっかりとデッサンの基本が踏まえられ、手塚さん自身がアニメーションの制作を通じてデッサンを研究し、問題を解決し、中でもパースについては眼を見張る成果を上げていることが作品から認められています。同じようにデッサンを学ぶ学生はいますが、かなり熱心な学生でなければ手塚治さんほど徹底して取り組むことはなく、東京芸術大学の学生でもそこまで頑張るのは最高に意識の高い一握りしかいないと見て良いと考えます。当然のことながら手塚治さんの描いた作品全般からはクマビとしては世界的な目線で評価できる高度なデッサン力が認められると考えています。手塚治さんを低く評価した人間が当時いたことや、現在も未だにいることは事実です。当時の人間は(今も)手塚治さんの足をひっぱり、漫画の世界に美術の学生を取られることや、様々な側面から美術の世界が漫画に浸食されることに強い危機感を抱き防衛本能が働いていただけで、実際は評価した人間よりも圧倒的に高いデッサン力を手塚治さんは持っています。この文章を書いている私(小平)は東京芸術大学を卒業していますが、高校1年生から東京芸術大学1本で毎日デッサンに励み、最終的に7年浪人して東京芸術大学に入りました。受験生としてはかなりの年月をかけて絵を描いていますから東京芸術大学の中では技術はある方だと思います。しかし、生涯にわたり締切に追われながら毎日漫画にたずさわり続けた手塚治さんの仕事量を考えると私の仕事量は足元にも及びません。私以外にも当時の画家で手塚治さん以上に絵を描いていた人は漫画の世界程美術は必要に迫られる世界ではないのでいないと考えることが妥当です。手塚治さんは画家と比べればものを観察することを通じて描くデッサンでは劣る点があると思いますが、漫画の中で描かれるイメージの世界においては画家よりも圧倒的に高いデッサン力があります。(美術の世界で声を大にしてそれを言う人はいませんが)


「漫画とイラストレーションとデザインに対する偏見」


根深い問題ですが、画家の世界と社会、特に学校関係者には漫画とイラストレーションを価値の低いものとして扱う偏見があります。漫画、アニメ創世記から現在まで、漫画やアニメーション、イラストレーションやデザインの世界が大きく発展しはじめ、画家の世界は脅威を感じていました。現在では画家の世界の規模は年々縮小し、当時勢力をふるった画壇は日本画の世界は維持しながらも洋画の世界は日曜画家と一部の美術団体の活動に献身的に参加している中学と高校の先生が指導の傍らで制作して出品する集まりになってしまい、今では画壇が絵の世界を動かすような期待は持てず見る影もありません。当時、手塚治さんをはじめとする漫画家の方々が画家からどのようなことを言われていたかは我々が我々の先生たちが漫画やイラストレーションを非難していた言葉を思い出せば簡単に想像できます。もし、当時、デッサン力についての有識者の中でくだらない縦横の関係にとらわれない「心」ある人が手塚治さんに「あなたのデッサンは素晴らしい」と一声かける機会があれば、手塚さんは余計なコンプレックスを抱かずに済んだ話だったかもしれません。自己流はどこかで不安が付きまといます。実際には自分で調べられることでも「先生に教えてもらった」という経験や作品を検証してもらった経験が大切です。先生に言ってもらったことで確証が得られ、不安が払いのけられます。ひょっとすると手塚治さんはデッサンの世界に近づくことに抵抗があり、デッサンの世界には歩み寄れない心の壁があったのかもしれません。クマビは美術の世界の縦横の関係は嫌いなので、縦横とは一切関わりのない研究所ですし、漫画やイラストレーション、デザインに対する偏見はまったくありません。デッサンの勉強がしたい人は遠慮なくクマビに覗きに来て下さい。美術の世界は手負いの獣のような体質になっています。古い先生の中には漫画を描いたり、想像で描いたりしただけで怒鳴る方もいらっしゃいます。規模の縮小を懸念して腫れものには過敏に反応します。美術にも当然ながら大きな価値があります。漫画やイラストレーションやデザインに負けない力が美術にはありますが、残念ながら美術には何も見えなくなっているようです。美術が冷静に価値を再確認し形骸化して身内の集まりに固執した古い組織を改革し、漫画とイラストレーションとデザインの価値を受け入れ偏見をなくしていくようでなければ美術が美術の本来の価値を見い出し、漫画に負けないくらいに広く社会に認められるのは随分先の長い話になると考えます。


「タイムリミット」


話が戻りますが、手塚治さんは自分の力で一から実力を積み上げて叩き上げることができる精神力の持ち主です。その話から少し現実的に目線を低くした話をします。多くの人が手塚治さんほどの精神力はないと考えてみます。独学で学ぶには様々な問題がありますが、中でも特に大きな問題はタイムリミットです。タイムリミットを設けずにエンドレスで漫画を描き続けることができる人には関係のない話ですが、自活しながら漫画を描くにしても、誰かに生活の支援をしてもらうにしてもタイムリミットは多くの人が考えて漫画を描きます。タイムリミットに向けて少しでも有利にことを進めることが大切です。そこで検討してみて欲しいのが美術系の学校に籍をおいて親御さんからの支援を受けることです。学生であれば学校に通っているという免罪符があります。高校を卒業した後で学校に行かずに誰かに支援してもらうことは通常は難しいと思います。殆どの人が自分で働きながら勉強を続けることになります。夢が実現するまで頑張れる人は良いですが、挫折する人が多いことが現実です。漫画家を目指す人の中には漫画家になるために親御さんの了解のもと支援を受けることを期待して芸大美大に行く人がいます。


「クマビで学んでみる」


今度は話は変わりますが、絵を描く力を身につけることは誰でも時間がかかります。又それは、「時間をかければ健康な人であれば誰でも力を身につけることができる」ということを意味します。経済的な余裕があって誰でも予備校に通うことができれば、誰でも絵は上手に描けるようになります。しかし、フリーのデザイナーや漫画家になる人が芸大美大や専門学校に行かない第一の理由は年間200万という学費の高さです。今の日本では芸大美大や専門学校に行かない人が高度な造形能力を身につけることは、独学で乗り切れるタイプ以外には不可能です。そこでクマビでは専門学校や芸大美大に行けない人のために、専門学校や芸大美大よりも安い学費でしっかりとデッサンの基本を学び、専門学校や芸大美大の学生に負けることのないデッサン力が養成できる環境をつくっています。勿論手塚治さんのように独学でデッサン力を習得できる人で不安にならない人は学校に通う必要はありません。只、独学で学びながらも「後ろ盾のない漠然とした不安感」や「客観的な評価が得られないことからくる自信の持ちづらさ」を抱きそうな人はクマビに来て下さい。しっかりと善し悪しを評価しますし確実な力が身につきます。



「高校を卒業するまでに完璧なデッサン力を身につける」


最後に手塚治さんの話からは随分目線を低くした話しになりますが、クマビから独学を成功させる必勝の方策です。参考例を上げて説明します。東京芸術大学の学生の中にはちらほら漫画を連載している人がいます。中には漫画を描き始めて半年後に連載を持ったという話もあります。東京芸術大学の学生を参考に想像して欲しいのですが、東京芸術大学の学生が早く連載を持てるのはなぜでしょうか?早くに漫画の連載が持てる理由は画力があるからだと考えられます。勿論漫画がストーリー重視であることはいうまでもありませんが、漫画家になれずに挫折する理由の多くが画力を付けることに時間がかかりすぎたり、画力がつかなかったからと言える現実があります。画力の基になるデッサン力はしっかりと時間をかけて練習すればプロで十分通用するレベルまでかならず身につきます。問題はデッサンの勉強方法に問題があり、時間の余裕を持って取り組めなかったからだと思います。画力がしっかりと付いた時の余力を想像してみてください。美大や専門学校に行かない人は、制作を続けることが難しくなる高校卒業までに画力./デッサン力を身につけることをお薦めします。クマビに来ることができる人はクマビに来て下さい。クマビなら自分の予算の都合に合わせて通うことができますし、確実にデッサン力が身につくノウハウがあります。

最後に、指導を受けなければ不安な人には
→通えない人にはクマビの通信教育があります
通える人はクマビがあります

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