もしツル Scene 10

画像1

 『先生、こんにちは。紹介します。わたしの従兄の安和慎之介です。先生に「鶴女房」の話を聞きたいと言うので、一緒に来ました』と言ってくれたので、『はじめまして、安和慎之介です』と自己紹介した。

 大きな机の前に座っている男は、60歳を過ぎたぐらいで、白髪交じりでウエーブのきつい前髪が額のあたりで大きく波打ち、黒いフレームの眼鏡をかけ、よれよれのグレーのスーツの間から、黄ばんだカッターシャツがのぞいていた。僕が自己紹介を終えると、八橋先生は何の前触れもなくいきなり話し始めた。

八橋先生

 『鶴女房か。わしは40年間、ずっと研究してきた。研究仲間はわしのことを「鶴親父」と呼んでバカにしているが、わしほど鶴女房のことを知り尽くしている研究者は、日本中どこを探しても居らん! それなのに、みんな「変人」扱いしてわしのガクセツをまともに取り上げん、ケシカラン! そもそも国文学とは……』
 鮎子が「話し出したら止まらない」と言ったように、それから延々40分間近く、一方的に話し続けた。僕は唖然としたけど、その話に割って入ることはとてもできなかった。話の内容は「いかに自分が偉い学者であるか」ということと、「それにもかかわらず、自分の学説が国文学の世界で不当に扱われている」という二つに尽きた。その合間に『ケシカラン』とか『今に見てろよ』というつぶやきが何度も入った。僕はすぐに疲れてしまったが、鮎子は一向に平気で『そうですよね』とか『まあ、それはひどい』などと、適当に相づちを打ちながら聞いていた。
 慣れたものだと思って感心していると、八橋先生が三度目となる、『そもそも国文学とは……』という言葉を発した。そのとき、すかさず鮎子が、『先生、きんつばを買ってきましたから、お茶でも入れましょう』と言った。すると彼は、話をピタッと止めて、『そうか、よし、そうしよう』と言った。鮎子がお茶を入れ、先生がきんつばを食べ始めたとき、鮎子が「今よ」と言わんばかりに目配せをしてきた。
 そこで、僕は、やっと本来の目的である質問をすることができた。

慎之介 小

 『先生、「機織りをしているところを見ない」という約束を破った男の罪は、どうなったのでしょうか?』と僕が質問すると、八橋先生は半分残ったきんつばを口に入れるのを止め、チラッと僕の方を見て、『うん? 男の罪か、それは水に流して終わりだ』と言った。『水に流した?』『そう、日本では罪は水に流すものと昔から決まっておる』と言って、八橋先生は残りのきんつばを口に入れた。
 『それで罪を償ったことになるのですか?』僕は、ちょっと呆れてそう言った。すると先生は、『仕方ないだろう、それが日本文化というものじゃ』と言い、それから少しの間、なにか物思いにふけっている様子だったけれど、つぶやくように、こう言った。
 『しかし、男が本当に自分の罪を自覚しているのかどうか怪しいものだ。罪は三代続く。自分は何もしていないと思ったら大間違いじゃ。それともう一つ、大切なことがある。問題は、「日本の昔話には、“不幸で恐ろしい想像”を乗り越えるような“幸せな想像”が結末にない」ことにある。それこそが本当の問題じゃ』と言ってから、二つ目のきんつばを口に入れた。僕は、彼の言っていることがよく理解できなかった。そこで、
 『“幸せな想像”とは、たとえばどんな想像ですか?』と尋ねると、口をもぐもぐさせながら、『そんなものは自分で考えろ』と、不機嫌そうに言った。その言葉は、あまりにも無責任だと思ったので、『でも、先生はきっとすばらしい想像をなさっているのでしょうね』と、ちょっと皮肉を込めて僕は言った。

画像4

 八橋先生は、困った顔をして考え込んでいたが、面倒くさそうに、
 『若者よ、お前はタツノオトシゴを知っておるか?』と聞いてきた。『竜のような姿をしている魚の一種でしょう。それがどうかしましか?』

 『スーパーマーケットで100円のしらす干しを買うと、たまに干からびた小さなタツノオトシゴが混じっていることがある。それを見つけた時、何か少し得をした気分になる。あれだよ。あれこそが“幸せな想像”だ』と言って、それこそいかにも幸せそうにニコニコしながら、三つめのきんつばに手を伸ばした。
 僕はがっかりした。わざわざ伊勢まで来たことを後悔した。これ以上ここにいても時間の無駄だと思ったので、『今日はありがとうございました』と言って、研究室を出ようとした。その時、
 『もう帰るのか? お役に立って嬉しいよ。あっ、ちょっと待て。君は、鶴女房にわなを仕掛けたのは誰だと思う? 知っていたら教えてくれないか。わしにはそれが分からん』と言った。僕は腹が立った。それが自称「日本一の鶴女房研究者」の言うことか、と思った。
 『さあ、先生に分からないことが僕に分かるわけがありません』と言って、丁寧に会釈をして部屋を出た。

miyake_san 小 100

 廊下に出た僕を鮎子が呼び止め、
 『お兄ちゃんが腹を立てるのは尤もだと思うけど、八橋先生の話のなかに、きっと、何かヒントがあると思うよ。東京に帰ってからよく考えてみてね。わたしはこれから先生のお手伝いがあるから、ここでさよならするわね』と言って、研究室に戻っていった。その後ろ姿を見送ったあと、
 「ヒント? いったい、あのいい加減な話のどこにヒントがあるというのだろう?」
 僕は、廊下で考え込んだ。しかし、そんなヒントは見つからなかった。僕は考えることを諦めて、宇治山田駅に向かった。



つづく

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?