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「幸せになる勇気」とは何か〜読書感想文〜

北国は、そろそろ本格的な冬支度が必要になってきそうな季節である。
先日、7、8年ぶりに「嫌われる勇気」をじっくりと再読した。
今こそ、自分自身が本当の「嫌われる勇気」を持つときではないか?
そう思えたからだ。
それまで、私は「嫌われる勇気」から学んだことに満足していたのだと思う。
だから、完結編の「幸せになる勇気」が発売されても、購入しただけでページを開く「勇気がなかった」。

しかし、改めて「嫌われる勇気」とじっくりと向き合った今こそ、その完結編を読むべきではないか。
そう思い、ずっと本棚にしまっていた「幸せになる勇気」のページを開いた。



「嫌われる勇気」の復習として

前作「嫌われる勇気」に登場した青年が、3年の時を経て再び登場する。
哲人から教授されたアドラーの教えに感化され、新たな人生を歩き出した青年。
しかし、アドラーの教えは実践する上で一筋縄ではいかなかった・・・。

今回の青年のポジションも、さながら読者代表だ。
アドラー心理学を知り、感化され、実践しようとした。
そして実践しようとしたからこその苦悩が、青年によって代弁される。
この青年の言葉は終始うるさいほどに毒舌なのだが(笑)、彼の言葉は「嫌われる勇気」の復習としての、前作の要約が織り交ぜられている。
青年のその言葉に対して、哲人がさらに発展させて返す。
だからこそ、「幸せになる勇気」の中の言葉は、「嫌われる勇気」の中の言葉よりも洗練され、磨かれているように感じた。

その洗練され、より磨きがかかったアドラーの教えの言葉の中で、特に私の心に残ったのが以下の言葉だ。

・自分の人生を決定するのは、「いま、ここ」を生きるあなたである。

・人間は、いつでも自己を決定できる存在である。

・「いま」を肯定するために、不幸だった「過去」をも肯定する。
つまり、「いま」が、過去を決めている。

・大切なのは、何が与えられているかではなく、与えられたものをどう使うかである。
つまり、あなたの決心ひとつによるものである。

・われわれにとっては、なんでもない日々が試練であり、「いま、ここ」の日常に、大きな決断を求められている。


アドラーはまさに、人間に絶大な信頼を寄せた人だったのだと思う。「夜と霧」のフランクルと同じように。
それは、時代がいかに変わっても、人間が求めてやまない救いなのかも知れない。
かけがえのない自分の人生を、生き切るために。


アドラーが説く「愛」

「嫌われる勇気」と「幸せになる勇気」の決定的な違い。
それは「共同体感覚」についてさらに深く議論しているところだろう。
私自身、「嫌われる勇気」に「共同体感覚」と言う概念が登場した時、正直よくわからなかった。
でも、「幸せになる勇気」を読んでようやく、その理解のスタートラインには立てたと思う。

ざっくりと書くと以下のような関係になるようだ。

愛とは2人で成し遂げる課題であり、そこでは「わたしたち」の幸せを追い求めなければならない
 ↓
人生の主語が「わたし」から「わたしたち」に変わる
 ↓
自己中心性から解放され、世界を受け入れる
 ↓
共同体感覚へとつながる


アドラーが語る愛とは、極めて能動的であり、努力を要するものだった。
個人的には、「それはそうだろう」と思う。
そこはストンと腑に落ちた。


個人的な雑感

なぜなら、愛とは何かの最終章を読んで、野島伸司さんの「世紀末の詩」や、さだまさしさんの「恋愛症候群」の歌詞を思い浮かべたからだ。

「世紀末の詩」とは、野島伸司さんが脚本を手がけた連続ドラマで、その名の通り、1999年の世紀末が舞台となる。様々な愛にまつわるストーリーだ。主演は竹野内豊さんと山﨑努さん。

第9話「僕の名前を当てて」で、竹野内豊さんが大沢たかおさんにこう言い放つシーンがある。

愛とは恋のように思い出にはできず
失えば誰かを好きになる回路さえ奪われるもので
瞬間にして、永遠で
疑わず、諦めず
そして、喜び、怒り、悲しみ、楽しみ、救われるものだ。
恋する人と出会い長い時間をかけて魂が寄り添うことなんだ。
それが愛なんだ。
誰もが手に入れられるものじゃない。
まして生まれながらに持っているものなんかじゃない。
お前の愛は偽物だ!

世紀末の詩 The Last Song 第9話 「僕の名前を当てて」 

また、さだまさしさんの「恋愛症候群」という歌に、こんなフレーズがある。曲自体は長めで、最初は面白いテイストなのだが、徐々にとても深い話になっていき、最後は拍手喝采(それがさだまさしさんの醍醐味か)。

相手に求め続けるものが恋、奪うのが恋。
与え続けるものが愛、変わらぬ愛。
だからありたっけの思いをあなたに投げ続けられたら、それだけでいい。

さだまさし「恋愛症候群」

愛は、不断の努力が必要。
愛は、与え続けるもの。

すなわち、私がアドラーの説く「愛」について触れるのは、初めてではなかったのだった。


アドラー心理学の継承、そして更新

そしてできれば、アドラーの思想をそのままに継承するのではなく、あなた方の手で更新していってください。
(中略)
・・・時は流れます。あたらしい悩みが生まれます。人々のコモンセンスは時代に合わせてゆっくりと変化していきます。われわれはアドラーの思想を大切にするからこそ、それを更新していかなければならない。原理主義者になってはならない。これは、新しい時代に生きる人間に託された、使命なのです。

「幸せになる勇気」第五部「愛する人生を選べ」
p276「シンプルであり続けること」

「幸せになる勇気」を読んで、僭越ながら限界点だと思ったのが、愛の実現の入り口として、結婚の議論にとどまっていたことだ。

哲人:結婚とは、「対象」を選ぶことではありません。自らの生き方を選ぶことです。
青年:生き方を選ぶ!?じゃあ「対象」は誰でもいいと?
哲人:究極的にはそうでしょう。
(中略)
哲人:反発の多い議論であることは認めます。しかし、われわれはいかなる人をも愛することができるのです。

「幸せになる勇気」第五部「愛する人生を選べ」
p265「愛とは『決断』である」

21世紀となり、今や愛の形は多種多様だ。
必ずしも結婚だけが、愛の実現の入り口とは限らない、と個人的には思っている。
かけがえのない自分のこと以上に、その相手の幸せを願えるならば。


「幸せになる勇気」での「いま、ここを真剣に生きる」とは

だとすれば、われわれにできることはひとつでしょう。
すべての出会いとすべての対人関係において、ただひたすら「最良の別れ」に向けた不断の努力を傾ける。それだけです。
(中略)
そう思えるような関係をこれから築いていくしかないでしょう。
「いま、ここを真剣に生きる」とはそういう意味です。

「幸せになる勇気」第五部「愛する人生を選べ」
p277-278「人生のタイムリミットについて」

「いま、ここを真剣に生きる」とは、いつが最後の別れになっても後悔しないように生きること。

つまり、幸せになる勇気とは、
どんな結末が待っていようと全て受け入れられるような、
「自分のいま」を肯定する勇気

なのではないだろうか。


これが現時点での私の思考の言語化である。
今後自分が生きていく中で、さらに思考が、自分の考えがまとまっていくのだろう。
とりあえず、今日はここまで。

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