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0805 それでも信じられない人へ 1 本人編

高知のひがし 土佐弁ニュース マダサリです

先日、私のこの活動を知っている人に、
「まぁ分かるけんど、全部は信じれんわ」と言われました

今私は、頭の中で分かっていることを伝えようとしています
その私に「ちょっと待て」と気づきを与えてくれました
確かに、全く知らない人に分かるようにと作ってきたつもりでしたが、
それをまるごと「信じて」と言っても無理なお願いでした

別の人にも私を心配して
「下手したらオオカミ少年みたいになるで」と言われました

この2つの助言は、発信活動に猛進する私へのブレーキだと思いました

そこで今日のテーマは
「それでも信じられない人へ 〜信じるとは〜 1」

私の発信を半信半疑でも見てくださって本当にありがとうございます
もし信じられないところがあったら、それはなぜでしょうか
それ以前に、皆さんが今信じていることは果たして真実なのでしょうか
そして私は、どうしたら信じてもらえる発信ができるのでしょうか
「信じている」を少し深堀りする、そんな回にしようと思います

「信じる」ことには二通りの立ち位置、視点があると考えられます
1つは本人側、もう1つは外の人や物がどうであるかです
今日は、本人側のお話をします

何かを信じる時、本人がどういう人か、どのような心理状態や状況環境かによって、5つの可能性があると考えられます

1 素直な人、子ども、性善説を信じている人など

 素直な人というのは性格です。割と優しい環境で育った人はその傾向にあるかと思います。私も10歳までおばあちゃん子でしたので、基本的にこの性格が当てはまります。
 子どもについては説明の必要はないでしょう。素直が故に、学校教育の刷り込みは得てして害になる可能性を多分に秘めています。
 最後は、性善説。これは「人間は生まれながらにして善であるか悪であるか」という考え方です。日本人は基本的に性善説の人が多いのではないかと思います。それは、日本の暮らしやすい気候、島国で他国他民族と激しい闘いをしてこなかったことなどでしょう。大陸は殺戮の歴史の中で、人をまず疑うという考えが染み込んでいても仕方がありません。よく日本で財布を落としても返ってくると外国客からの驚きの声が上がりますが、日本人にとっては至極当たり前すぎる話です。

2 本人が病気など危機的状況に追い込まれている

 にっちもさっちも行かないとき、目の前にあるものを信じたくなることで、それが神頼みや、優しい言葉をかけてくれる人などです。結婚詐欺などは、大変巧妙に相手の真理をついてきて、信じ切ってしまった人はなかなか騙されていることに気づかないそうです。結婚したいという思いが強すぎるがために、その弱みにつけ込まれてしまうのでしょう。新興宗教などもあまり良いイメージがないのは、信じてすっかりコントロールされてしまう怖さがあるのではないでしょうか。もちろん宗教を全て否定するものではなく、信じることで心が救われることは多々あります。ただ、危機的状況というのは得てして判断を鈍らせる危険性があることは確かだと思います。

3 何度も何度も同じことを刷り込まれている状態、洗脳

   0713 繰り返し繰り返し刷り込まれる
   0716 続 繰り返し繰り返し刷り込まれる
こちらで紹介したように、代表的なのはテレビ新聞などの報道を信じてしまう「マスコミ脳」です。残念ながら日本のマスコミ脳は視聴者の7〜8割にのぼり、特に一日中テレビをみている世代はマスコミ脳から逃れることはできません。最近ネットでは、その人たちを救うべく「テレビを切れ!」と叫んでしまう人が続出しています(笑) 
 その他、学校教育(大学に至るまで)も実はこの要素が多分にあることを指摘しておきます

4 本人の経験や知識に照らし合わせて信じるか否か

 人生経験が長くなってくる中年以上の年代は、「自分の辞書」にないことは信じ難くなり、頑固な人は「聞きたくもない」と拒絶の態度をとる場面も出てきます。誰しも、親との関係で少なからず経験しているのではないでしょうか。けれどもこれは致し方ないことだと思います。この項目は、1の「子ども」に相反します。親や相手は変えられませんが、もし自分にも心当たりがあるなら、克服するために「子ども」には戻れませんから、「素直になる」しかないでしょう。

5 自分自身が信じたい、そうあってほしいという強い願いをもっている

 相手がどうであれ、自分が信じたいと強く願うことです。例えば、家族の無事を信じるとか、親の病気がよくなるのを信じるとか、資格試験に合格すると信じるとか、日常的にも色々な場面があると思います。
 すこしスピリチュアルな話をすると、「信じる」時に肯定的な言葉で信じると発したほうが良いと言われています。例えば、
「病気にならないように」ではなく「健康で暮らせるように」と
「叱られませんように」ではなく「ほめられるように」と
他にも「転ばないように」「遅れないように」「失敗しないように」など否定的な言い方や考えかたをするとその「言葉」に引っ張られてしまうと言われています。
少し脱線しましたが、今日のテーマをまとめると

「信じる」ことには二通りの立ち位置、視点があり、今日は「本人側」について話ました。何かを信じる時、本人がどういう人か、どのような心理状態や状況環境によって、5つの可能性があります

1 素直な人、子ども、性善説を信じている人など
2 本人が病気など危機的状況に追い込まれている
3 何度も何度も同じことを刷り込まれている状態、洗脳
4 本人の経験や知識に照らし合わせて信じるか否か
5 自分自身が信じたい、そうあってほしいという強い願いをもっている

自分自身の性格や状態を客観的に振り返ることで、
信じるに値することを取り逃がしてしまわないように、また
信じてはいけないものに騙されないように、なるといいなと思います
特に4の「本人の経験や知識に照らし合わせて信じるか否か」は私も当てはまると思いました。

次回は、「自分以外の人や物がどうであるか」についてお話します
他の人や物を信じてしまう場合、「本人側」より被害が大きくなるのではと考えています。ぜひ続けてご覧ください。

ありがとうございました

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