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書くことで、救われてきた。松浦弥太郎さんが考えるこれからの生き方とは。

10月25日発売の新刊『エッセイストのように生きる』(松浦弥太郎著・光文社刊)より、「はじめに」を抜粋してお届けします。

・あたらしい生き方を考えよう

気候変動による気温上昇、インフレ化する世界経済、終わりの見えない国と国の争い、あらたなる感染症、広がる貧富の格差、核兵器の脅威、人間化を脅かすテクノロジー、なにもかもが不安な時代です。

それでも僕らには今日の暮らしがあり、明日もやってくる。どうしよう、ちょっと待って、と思っていても、ときは止まってはくれません。
僕はときどき、そんな時代の流れに自分が取り残されていくような不安に襲われます。
もちろん、そんな毎日であってもたのしいことやうれしいことはあります。感謝することもあります。けれども、次から次へと、自分たちの想定を超えたできごとや問題がふりかかってくる。これが未来です。そこにある未来はどんな未来なのか。
そう思うと、僕は立ち止まりたくなりました。いまそしてこれから、自分はどんな人生を送ったらよいのかと考えるのです。

僕は自身のライフスタイルを省みました。
職業はエッセイストです。そのほかにさまざまな仕事のかかわりがありますが、基本的に「エッセイを書く」ということが暮らしのベースにあり、いつしか「エッセイを書く」ための暮らし方が自分らしい生き方になり、自分のこれまでの人生を築いてきたように思えます。

そこでふと思いました。これからを生きる選択肢のひとつとして「エッセイストという生き方」があるのではないかと。なんてことないと思っていた自分の生き方は、もしかしたら、これからの時代を生きるため、いや、生き抜くための小さな発明かもしれない、と。

突然ですが、あなたはコップ一杯の水をどんなふうに飲んでいますか?
なにも考えずに一気にぐいっと飲んでしまうのか。それとも、いそがずにゆっくりと味わいながら飲むのか。コップ一杯の水の飲み方に僕はその人の生き方があらわれるように思います。どちらがよくて、どちらがよくないということではありません。ただその違いは大きいのです。

社会的な成功や、経済的な安定、未来に対する明るい希望という、俗にいうしあわせというものは、あくまでもなにかしらの結果論です。そこには努力や運が大きく作用するでしょう。では、そのために僕らはなにをどうやって、努力するのか。なにをどうやって、運を引き寄せるのでしょうか。これまで必要とされてきたのは競争に勝つことでした。だれよりも早く、だれよりも多く、だれよりも強く、社会という戦場で戦わなければなりませんでした。そこで勝ち残るか、負け破れるか。これから先の未来、そういう生き方がさらに求められるように思えて仕方がありません。

さて、あなたはどんな生き方を選びますか?
だれもが戦士になれるわけではありません。少なくとも僕は戦士になれません。いや、なりたくありません。これはしあわせをあきらめるということでなく、どこかにこれからの時代らしい、もっと違うほかの、戦わない、競わないというあたらしい生き方があるのではないかという疑問です。そう思えば思うほどに、「エッセイストという生き方」は、この時代に対する僕のアンチテーゼかもしれません。

競争社会の中、既存の生き方ではしあわせや豊かさが得られなくなった現代、社会に生きる多くの人はあたらしい生き方をさがしているのではないでしょうか。

僕は「エッセイストという生き方」をおすすめしたいのです。エッセイストという職業を選んでくださいというのではなく、その生き方を知ってもらいたいのです。


松浦さん思考の流れがわかる、直筆マインドマップも公開。(本書より)

投資家やYouTuberのようにだれにも縛られずに大きな収入を稼ぐ働き方が典型ですが、一方、社会での承認欲求を満たすことや、セレブのような経済的成功を果たすことに抵抗を感じる人々も存在しているはずです。
さらに言えば、こんな情報社会であることから、今後、デジタルデトックスを求める人々は増えていくでしょう。
物質的なしあわせではなく、精神的かつ本質的なしあわせを求める人々のための提案がこの本の大きな意図です。

「エッセイストという生き方」とは、なにかになるための生き方ではなく、自分はどんな人間になりたいのかを考える生き方です。
日々の暮らしと自分自身をまっすぐに見つめて、よろこびや気づきという心の小さな動きを感じ、それを明確にできる生き方です。

30代、40代は人生の中間地点です。自分のこれまでを振り返るにはよいタイミングです。ときに流されるのではなく、これからの生き方をリセットすることが大切なのです。人生はあと30年、40年残っています。ぜひとも、自分が自分として生きるための方法を見つけてはいかがでしょうか。

情報があふれているいま、自分自身の解像度が低くなり、仕事と暮らしにおいて、混乱しがちで精神的に不安な人々が増えています。
ありのままの日々の中からささやかな気づきや感動という宝物をさがし、それをよろこび、それを分かち合い、それを育むことで、自分自身の解像度を明確にし、他人への解像度も高めていく。そういう生き方、そういう人生を、僕はみなさんと学んでいきたい。

この本が、これからの未来のために、あたらしいしあわせと心の安らぎに満ちた「エッセイストという生き方」を学べる一冊になれたらうれしく思います。

装画は串田孫一さんの作品です。

・自分の軸を、保って生きる

20代の後半から、僕は長きにわたって自分の内側を見つめ、書きつづけてきました。
自分の好きなものや苦手なものを知り、人生にとって大切なものを知り、自分のしあわせを、豊かさを、生き方をひとつずつ見つけてきた。
そうして「自分の生活」をつくりあげることができたのです。
自分の生活があるから、情報や他人の声に気持ちを乱されることはほとんどありません。なにかを決めるときも、たいていのことは答えをすっと出せます。ときどきバランスを崩しそうになることはあるけれど、すぐに「あ、いまの僕はいつもの僕と違うな」と気づき、力を抜いて、ニュートラルな自分に戻すことができます。

こうして自分が自分として生きることができているのは、エッセイを書いてきたから。「エッセイを書く」という行為を通じて自分自身を知り、心の中に自分の居場所を守りつづけてきたからにほかなりません。
エッセイを書くことに、救われてきたのです。

僕にとって「エッセイを書くこと」は仕事でありながら、同時に生き方の選択でもありました。つまり、「エッセイストのように生きる」ことを選んできたのです。
エッセイストとして世界を眺め、自分を眺め、日々を眺めていく。愛するものやことを深く理解し、自分だけの世界をつくり、自分の人生を選ぶ。そして、豊かさやしあわせを人と分かち合う。

「自分の豊かさ」と「自分のしあわせ」を知って、大切にする。なににも翻弄されずに、自分の生き方を見つける。コップ一杯の水を、静かにゆっくりと味わいながら飲む。なにになろうではなく、どんな人間になりたいのかと考える。
その方法こそが、「エッセイストという生き方」にあるのです。