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デイヴィッド・ホックニー展:2 /東京都現代美術館

承前

 龍安寺石庭のフォト・コラージュの裏の壁には、横長構図の絵画作品がいくつか展示されていた。中国の画巻から着想を得たものという。複数の視点・時間をひとつの画面に取り込むために、ホックニーは引き続き東洋の古典をヒントとしたのである。
 解説のなかで「中国の画巻」というキーワードに出くわして、妙に納得するところがあった。だから、東洋人のわたしにも、ホックニーのこの種の作品が受け入れやすいのだ。

 同様の感触は、エスカレーターを降りた下のフロアでより強く感じられた。こちらの作品は、すべて2010年代以降に制作されたもの。
 年代順に回顧展の形式をとりつつ、近況・現況を示す最後の箇所を手厚くする構成。それは、老境を迎えてもなお衰えを知らない、作家の創作意欲の高さを物語っている。
 下のフロアは(おそらく)上の階と同じ広さで、展覧会全体からみればちょうど後ろ半分をなしているが、たった2室しかない。そして、点数としても非常に少ない。もちろん、密度がスカスカなわけでもない。
 ということは、つまり……巨大な作品が多いのだ。

 最初の部屋は、本展のポスターにもなっている幅10メートル超の油彩《春の到来  イースト・ヨークシャー、ウォルドゲート  2011年》(ポンピドゥー・センター)を中心に、両側、そして向かい側の壁を連作で埋めた「春の到来」シリーズのための空間。暖色系の壁が、濃密の感を否応なしに高める。

 近年のホックニーは、絵筆をiPadに持ち替えた作品が多い。
 両脇と向かい側にある連作のドローイング(デイヴィッド・ホックニー財団所蔵)はすべてiPadで描かれ、236.2✕177.8センチのアルミの合板に出力されたもの。
 1点でも惹かれるものがあるが、同じ壁面の別の作品を含めた「引き」の視点、さらに引いてこの室内をぐるりと見わたしてみることで、ホックニーがシリーズ全体をとおして表したかったもの——自然豊かなイースト・ヨークシャーの季節の移ろい、叙情性が感じられた。
 東洋の画巻とはまた違って、画面がきっちり分けられてはいるものの、相関関係を保っている点は共通する。この作品群はシリーズとして、こうして同じ空間で観ることに大きな意味があると思った。

 それにしても、iPadとは。
 こうして遠くから観ると、ちゃんと絵として成り立っているし、油彩などの従来からある技法で描いたものと見分けはつかない。
 近くで観ると、たしかにペイント(や、それに類似する)アプリを使って描いたのだなとわかる。筆と違って、描きはじめから終わりまで、描線に肥痩がみられない。偶発性が、かなり抑えられている。色合いは絵の具のそれとは様子が異なり、均一に、ムラなく乗っている。
 それらの特徴が無機質というわけではなく、全体として、ホックニーの絵として成立できているのだからおもしろい。
 いっぽうで、近づいたり、拡大しすぎたりすると、「あの機能を使ったんだな」ということがわかってしまい、そちらに興味が向いてしまうきらいもある。
 これはやっぱり引きで観るものと思い、撮影可能ではあったが、細部にカメラを向けることはしなかった。

  「80歳近いおじいさんがiPadを使いこなしている」という事実も、ある種の話題性を喚起はするけれど、この人ならむしろ意外ではないと思う。
 そんなことよりも、わたしは「他の作家がiPad絵画に取り組んだら、どんな絵ができるだろう」ということを思った。iPadがれっきとした画材となりうることを、こうしてホックニーが証明してくれているのである。
 とくに、素材や画材に依拠したスタイルの作家が、それらをリセットしたiPadの手法に挑んだとしたら、どうだろう。
 たとえば日本画家などは、いったいどのようなiPad絵画を描くのか——興味は尽きない。(つづく


現美近くの橋。江東区や墨田区には、橋や橋の跡が多い



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