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自身への眼差し 自画像展:2 /中村屋サロン美術館
(承前)
いま、ウェブは「アイコン」で満ちあふれている。
自分の顔をアイコンとして採用する場合は、写真か自画像か、そうでなければ他人が自分の顔を描いたイラストかということになる。
他人に描いてもらう以上は、その人が自分に対してもつイメージがアイコンの描写に反映することは避けようがない。ときにそれはバイアスと呼べるほど、あからさまに露呈するだろう。描く人自身がオリジナリティを表出したい欲にかられることもあろうし、画料が発生しようものなら、多少なりとも「美化」という名の手心が加わってしまう。
少なくともわたし個人としては、「自分ではない他者」によってさまざまな意識が上乗せされた状態のイラストを、自分の象徴であるかのように堂々と掲げられるまでの勇気がもてない。どんなアイコンを使うかは個人の自由であるし、窮極的にはどうでもいいのだが……
翻って、自画像には他者の意識、先入観、もくろみといったものの介在する余地がなく、すべては自己責任に帰する。
換言すれば、擦り寄りや忖度といった逃げの一手がない、より厳しいテーマだ。ぜんぶ自分に返ってくるから、ごまかしが効かない。
画家の研鑽において自画像が重要な位置づけを占め、東京美術学校の卒業制作が自画像と規定されたことにも、そのようなねらいがあったはずだ。
今回の展示は、画家の真価を存分に示すといえそうな自画像の作例が一堂に会する、貴重な機会である。
ところがじっさいのところ、これらの作品たちは「男性の肖像画なのでなかなか商品にならないと考え、美術館に納められた」(図録から要約)といった事情から、まとまって今日に伝わってきたそうだ。
たしかに、敬愛・私淑する人物でもなければ身内でもないような男性の肖像画を、おいそれと部屋に飾ろうという気にはなれないものだが……
地味でも、大事なものはある。
そんなことを考えさせる展示であった。
※展示品の多くは、日動画廊が運営する笠間日動美術館の所蔵品。高村光太郎と中村彝の自画像のみが、中村屋サロン美術館の館蔵品
※わたしが最も気に入ったのは、萬鉄五郎の自画像。表現主義的、略筆・殴り書きの小品。これだったら飾ってもいいかも(画像はリンク先参照)
※柚木沙弥郎さんの御尊父・柚木久太の自画像も
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