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駒井哲郎 線を刻み、線に遊ぶ:1 /慶應義塾大学アート・センター

 慶應の三田キャンパス内には、展示施設が散在している。
 慶應義塾ミュージアム・コモンズのほかに、赤レンガの図書館2階には校史を紹介する「福澤諭吉記念 慶應義塾史展示館」、図書館1階にも展示室がある。展示施設とは異なるものの、谷口吉郎+イサム・ノグチの「ノグチ・ルーム」を覗き見し、イサムの彫刻を訪ねる楽しみも。

イサム・ノグチ《無》(1950〜51年)

 これらはすべて同じ敷地内だが、正門から横断歩道を渡った別の敷地に、もうひとつの展示施設が(ひっそりと)ある。それが「慶應義塾大学アート・センター」。
 展示室は、かなり小さい。上に挙げたなかでは、いちばんちんまりとしているかもしれない(図書館の展示室とどっこいどっこい?)。
 ただ、展示はおもしろい。厳密な棲み分けがあるわけではなさそうだが、古いモノを扱うミュージアム・コモンズに比べると、現代寄りの新しいモノはこの施設の領域。史学はあちら、美術史はふたつにまたがり、現代美術批評やアート・マネジメントはこちら……といったところか。
 アート・センターのシリーズ企画、ひとりの作家を特集する「Artist Voice」は毎回、スケッチなども交えて、作家の声や息づかいまで聞こえてきそうな濃密な内容となっている。
 一昨年の河口龍夫(1940~)、昨年の有元利夫(1946~1985)に続く第3弾が、銅版画の巨匠・駒井哲郎(1920~76)となる。わたしはいまのところ皆勤賞。それだけ、この館の作家のチョイスや見せ方に好感をもっている。

  「次は駒井哲郎」と最初に聞いたときは、なるほどついに来たかと思った。
 というのも、駒井哲郎が幼稚舎(小学校)以来の生粋の慶應ボーイであったと知る機会が、最近あったからだ。
 今年8月30日に、資生堂名誉会長の福原義春さんが亡くなった。創業家に生まれ、トップとして資生堂ブランドの向上に努めるいっぽう、企業メセナの振興にも尽くした福原さんは、美術蒐集家としての顔をもっていた。福原さんを悼む記事のなかには、駒井との関係性に触れたものがあったのだ。
 福原さんも同じく生粋の慶應ボーイで、幼稚舎の10学年下になる。担任の先生は駒井の学年を受け持ったことがあり、版画という異色の道を選んだ駒井先輩の話を、幼い福原さんはことあるごとに聞かされていたという。
 長じて、福原さんは駒井の最大のコレクターとなる。およそ500点のコレクションは、生前にすべて世田谷美術館へ寄贈。わたしが直近で駒井作品を観たのは東京ステーションギャラリー「春陽会誕生100年  それぞれの闘い」、世田谷美術館「山口勝弘と北代省三展  イカロスの夢」で、出品作はいずれも福原さんからの贈り物であった(本展の展示作品・資料は、すべて慶應の所蔵)。

 駒井がエッチングの技法を学びはじめたのは、普通部(中学校)3年のとき。普通部には、エッチングの機械があった。ここで受けた図画教育を「生涯での最高の幸せだった」と語っている。
 その後も創作のかたわらには瀧口修造や佐藤朔といった慶應の関係者がおり、幼稚舎の刊行物『仔馬』に表紙や挿絵を寄せていた時期もあった。本展では、瀧口らと交わした手紙や、『仔馬』とその原画が出品。
 慶應での駒井展は、初とのこと。堂々の母校凱旋である。


 ——それにしても、である。
  「駒井哲郎といえば、まずこれ」と多くの人が思い浮かべる、もちろんわたしも思い浮かべる代表作が《束の間の幻影》(1951年)。本展の出品作ではないが……こんな作品なのだ。

 この作品の印象に引っ張られてか、駒井に関してはたいへん理知的で静謐、詩的な絵画世界をもつと同時に、非常にミステリアスで掴みどころのない作家というイメージが、わたしのなかにはあった。じっさい、同種の印象をいだかせる作品の展示頻度のほうが、高いとは思う。
 だが、本展に出品されていた絵は、上の仔馬の絵のように、ちょっと違った趣のものがほとんどだったのだ。
 ううむ、こんなにおもしろい作家だったとは……(つづく


紅葉の皇居通り抜け2023。
冬に花をつける桜


 ※福原さんが駒井について語ったインタビュー記事。

 ※横浜美術館で以前開催された、駒井の回顧展。



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