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藤牧義夫と館林:13 白描絵巻の来歴② /館林市立第一資料館

承前

 <再掲>
 A.《第一巻》 ※国柱会本部の庭園・申孝園を描いたもの
 B.《隅田川絵巻 No.2 白鬚の巻》
 C.《隅田川絵巻 No.3 商家大学向島艇庫より三囲神社まで》
 D.《隅田川下流図絵巻》 ※所蔵館の名称による
 ※A・B・Cの作品名は、作者自身の記述による

 “藤牧義夫の《隅田川絵巻》全4巻” といった言われ方をされることがある。Aの庭が申孝園と判明する以前の『別冊太陽』では、そのような表現となっていた。
 わたし自身、あまり意識せずに使っていたところもあったけれど、

《隅田川絵巻》はB・C。
Dはその構想段階。Aは別系統の絵巻

というのが、やはり実像に近いか。

 今後、B・C系統の「No.1」や「No.4」「No.5」のみならず、Aに続く「第二巻」、Dの本画、さらに証言のみ伝わる《城沼絵巻》が見出される可能性だって、なきにしもあらずだ。
 “藤牧義夫の《隅田川絵巻》全4巻” 像の解体に加えて、新たな絵巻形式の作例の発見と検討がなされていけば、「版画家の気まぐれ」「異色作」といった霧は晴れ、すぐれた風景描写をなしたひとりの表現者として、義夫はさらなる評価を得ることになるだろう。わたし自身もそうだが、「版画家がなぜ、このようなものを」という見方が、現状ではまだ拭えていない。

 義夫は極端なヨコ位置構図の版画を、いくつか残している。《御徒町駅》がそうであるし、絵巻と同じ場所、似た構図の《白鬚橋》もある。破調ともいえるこうした縦横比に、絵巻への挑戦の予兆がうかがえそうだ。
 そこからさらに絵巻という形式を選択するに至ったのは、かぎられた枠内にとどまっていては、表現したいものを表現しきれないという判断によるのだろう。隅田川の流れや沿岸の近代化・機械化のダイナミズムを描ききるには、長大な絵巻の体裁が最適で、不可欠だった(つづく
 

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