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集めたもの:2 須藤一郎と世界一小さい美術館ものがたり /多摩美術大学美術館

承前

 創吉の筆触は粗くとも乱雑さはなく、理知的な静寂を放っている。塗る、摺る、垂らす、削るなどさまざまな行為が、画面上で試行されている。同時にかすれ、にじみ、ぼかしといった無作為の効果も生じている。創吉の絵は、長い時間・手順を経て重ねられた「痕跡の累積」とでもいえそうだ。
 鑑賞者は、画面にあらわれた痕跡を目で追い、感触を確かめることをやめられない。創吉の絵は、観る者をくぎづけにする絵だ。

 今回のように思いのほかいい絵に出合えたとき、わたしの呼吸は浅くなり、脈動が感じられるようになる。換言すればそれは「ぞくりと手ごわさを感じる」体験であり、もっとくだけて言えば「ぐっとくる」「ひやっとする」といった表現がしっくりくる。こんな瞬間はそうそう訪れないのだが、有り体に言って快感というよりほかない。
 そして、須藤さんの原点にして最もほれこんだ画家である菅創吉の絵をとおして、須藤さんご自身の大きな感動が乗り移ってきたような、なにかとてつもないバトンを受け取ってしまったような……そんな気もしたのであった。 

 菅創吉の話が多くなってしまったが、須藤さんは同時代の他の作家による抽象画も精力的に蒐集した。大沢昌介や河野扶の大画面の作品がとくにいいなと思った。すどう美術館では独自のアワードを設け、受賞作の買い上げなど若手作家の支援にも尽力している。2階の展示室には若手や海外作家の作品も所狭しと展示されていた。
 展示作のどれもが須藤さんの主体的な行動と選択の末にもたらされたものであり、当然ながらそこには、須藤さんの美意識・趣味が貫かれている。
 ひとつひとつの作品のもつ力はもちろんのこと、須藤さんというフィルターを介すことによって、作品たちが総体としても強く胸に迫ってくるのを感じた展覧会だった。コレクションはまぎれもなく須藤さん自身の「創作」「作品」。「集めたもの」の真骨頂をみた思いだ。

 多摩美大では、この展覧会を嚆矢として「コレクターズ」と題するシリーズを立ち上げ、あるコレクターに焦点を絞った企画展を開催していくという。大いに期待大である。


 奇しくも同じ多摩センターで同時期に公開されていた、KDDI ART GALLERYの「集まったもの」と、須藤さんの「集めたもの」。好対照なふたつのコレクションへ思いをはせつつ、行きつけだった店で久しぶりに寿司をつまみ、盃を傾けて帰路についた。



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